なるせ湯みんシネ店 どうしましょう?(仮)

 

労働者たち、農民たち(‘00仏・伊) OPERAI,CONTADINI

 ダニエル・ユイレ、ジャン=マリー・ストローブによる共同監督作品。

 この二人は、知る人ぞ知るという感じの映画人なので、よほどの映画通じゃないと「観たことある」と言う人は少ないんじゃないか。別に自慢するわけではないが(って、可成自慢気よん?)、かくいう私も、10年以上前に渋谷のユーロ・スペースで公開された『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』を一度だけ観たきりである。



 で、どういう映画を撮る人かというと、これら二本を観た限りの私の勝手な!印象で言うと、役者は演技しない、ストーリーはない、カメラはほとんど動かない、ゆえに、盛り上がらない、の、正にないない尽くしなのである。つまり、ハリウッド映画をはじめとするほとんどの商業映画の対極にある映画なのである。では、つまらないのかというと、実はそうでもない。例えて言えば、ディズニーランドに行って、ショーやアトラクションやその場のお祭り気分を楽しいと思う人が居る一方、何もない山村などへ行って、ひとりぼうっとするほうが楽しいと思う人がいるのと、同じ感覚であると言えばよいか?

 つまり、この映画は(実は私は、監督の名だけは知っていたけれども、この映画の取られた背景については何も知らないんですよ)、たぶんイタリアのどこかの山道で、俳優なのか、地元の本当の農民や労働者なのか分からないが、男女数人が、ある小説のテキストの一部分を、立ったり、座ったり、恐らく自分が用意したと思われる手書きのカンぺを見たり、見なかったりしながら、ただただ“朗読するだけ”というもので、これを聞いただけでも既に引いてしまう人がたくさん居るのだろう。けれど、カメラマン(名手レナート・ベルタ他三名)のきっちりとした構図により捉えられた山道の光と緑や虫や鳥達のざわめきが同時に納められているため、なにか、自分もそこに立ち会っているような気分にさせられてきて、妙に心地よいのである。

 ただ、読み上げられるテキスト(エリオ・ヴィットリーニ(『メッシーナの女たち』(未邦訳)第44章から第47章より)は、当然イタリア語の分からない私には馬の耳に念仏であり、その意味を知ろうとすれば、字幕を読むほか無いのだが、残念ながらこの字幕が曲者である。はっきり言って、読んでいるとねむたくなっちゃうのよね。読んでも内容がすぐには分からないし(オイラがおバカだからか?)。仕方がないので、彼らの朗読も情景を形作るひとつの要素だと割りきって、字幕は途中から無視しました。で、その方が、スクリーンに集中でき、イタリア語独特の抑揚感と、読む人のリアクションが微妙に食い違ったり、それぞれの個性が見て取れて、それはそれでサスペンスフルだったりもする(例えば、ひとりだけ、いきなり演技らしきしぐさを初めてしまうとか)。まあ、ずーっとそれで二時間を押し切るんだから、意味も分からず観ているこちらには相当の根気や想像力が要求されるのです。

 結論。私はこういう映画があっても良いと思います。これは、別に一部の知性・教養豊かな方々を喜ばす為の特権的な作品ではない(そんなものは、断じて映画と呼んではいけない!)。すなわち、郊外の公園のベンチでひとりぼうっと木漏れ日や木々のざわめきに身をゆだねて過ごす時間をとても“気持ち良い”と感じる人ならば、この映画は、観終わった後の現実の風景をちょっと”映画的”に変えて見せてくれるでしょう(それなら、「映画なんか観ないで公園に行けばいいじゃん」ってか?「あんさん、それを言っちゃあ、おしまいよ」)。

 8月1日封切映画千円の日に、研修を途中で抜けて、千五百円払ってこの映画を観た御茶ノ水アテネ・フランセ(十年振りに行ってしまったよ、全然変わんねえでやんの!)から水道橋に至る下り坂の道すがら、少なくとも私はそれを十分楽しみましたとさ。

※2003年8月2日『映画日記』(旧HPのコンテンツです)より再録しました。