7.思い切り殴られた口元を押さえつつ、部屋を出て行く部下の背をやや虚ろな目で追う主人公のジョン・エドガー・フーバー。
彼は痛みを感じているのではない。殴られた直後に奪われた唇の感触に恍惚としているのだ。
映画中盤に用意されたこのクライマックスとも言える衝撃的なシーンの余韻が、この風変わりな伝記映画を唯一無二のものにしている。
この映画を悪名高いFBI元長官フーバーの人生を描き出すことで、当時のアメリカという国の「正義」に対する真実を導き出した社会派ドラマだと高を括って観たならば、きっと大いに面食らってしまうことだろう。
なぜならこの映画は、見まがうことなき“ラブストーリー”なのだから。
米国の政府内外のほぼすべての人間からから忌み嫌われ続けた男が、なぜ約50年に渡りFBIの最高権力者の地位に君臨し続けることが出来たのか。
ジョン・エドガー・フーバーという人間の行為、発言、思想、人格、人間関係、彼の人生を象ったそれぞれの要素を努めて冷静にフラットに描き連ねることで、この人物の悪行と功績、闇と光が一対となって見えてくる。
悪しき伝説に溢れたこの元FBI長官の人生をベースにすることで、社会の裏側をえぐり出していきある意味サスペンスフルな娯楽性に溢れた映画を導き出すことは容易だった筈だ。
しかし、イーストウッド監督はそれをせず、非常に挑戦的で危ういまったく別の試みに挑み、映画を完璧に仕上げてみせている。
人々に忌み嫌われ、謎にまみれ、闇にまみれ、それでもこの男が貫き通したかったものは何だったのか。そして、彼が本当に“隠したかったこと”は何だったのか。
映画はあくまでもこの人物のパーソナルの深淵へと突き進むように進行していき、人間としての“闇”のさらにその奥まで踏み込んでいく。
むしろ醜ささえ感じる地味な描写で映画は終焉する。
しかし、そこには言葉には表しづらい複雑な人間そのものの余韻を感じる。
「正義」という“闇”の中を突き進んだ男が、最期に辿り着いたものなんだったのか。何処まで行っても変わらない闇だったのか、一寸の光だったのか、それとも虚無だったのか。
捉え方は人それぞれだろうけれど、少なくとも個人的には“救い”が見えた気がする。
そして、その“救い”こそが、まさに愛だったのではないか。
それは、すべての人間に与えられた免罪符のようにも思え、感極まった。