2.“夢現(ゆめうつつ)”。
映画が終わった劇場の座席でしばしぼんやりとしながら、その言葉が頭に浮かんだ。
“ひとり”では、決して、抱えきれない痛みと、抱えきれない愛おしさ。
どこまでも切なくて、どこまでも残酷な映画だった。
白昼夢のようでもあり、悪夢のようでもあるこの歪な映画世界は、まさに現代社会の“ひずみ”を映しだした“リアルな寓話”だ。
社会の片隅でひっそりと肩を寄せあって眠る彼女たちの生きる様は、とても悲しくて、とても美しい。
二匹のランブルフィッシュのように、やがて彼女たちのまわりに余計なものは何も無くなって、二人だけの唯一無二の世界を構築していく。
束の間の、いや、ほんの一瞬の、幸福。
辛苦に溢れた世界の只中で、苦しみ、悲しみ、それでも、「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」と謳い上げたこの映画の、彼女たちの強さを讃えたい。
この奇跡のような映画を彩ったのは、“彼女たち”の存在感に他ならない。
主人公を演じた黒木華とCoccoが、この映画の中で息づくことで生まれたアンサンブルが、あやうく、愛おしい。
黒木華が岩井俊二作品の中で自然に息づくことはある意味容易に想像できていたが、Coccoがこれ程までに、岩井俊二の映画にフィットし、そしていきいきと支配していくとは思っていなかった。
そして、10代の頃から、この映画監督と、稀代の歌姫を信奉し続けてきた者にとって、それはあまりに感慨深い特別な映画体験だった。
彼女は、「この涙のためなら、わたし何だって捨てられるよ。命だって捨てられるよ」と、歌うように愛を伝える。
彼女は、新しい景色の風に吹かれながら、空っぽの左手の薬指を愛おしそうに眺める。
嗚呼、この世界の、ほんとうの価値が見えてくるようだ。
一ヶ月の期間をあけて二回この映画を観て、その直後に原作小説も読み終えた。けれど、まだこの物語のすべてを整理しきれてはいない。
きっと、一生、付き合っていかなければならない映画なのだと思う。
人は、強く、儚い。
そしてそのどちらも美しい。
今はただそう思う。