3.ずっと観ようと思っていた本作をようやく鑑賞したことで、エマ・ストーンは個人的に今年最も印象的な俳優となった。もともと大好きな女優の一人だったけれど、今年のはじめに観た「哀れなるものたち」の“ベラ”の衝撃性は今なお薄れることなく、本作 の彼女のパフォーマンスがそのインパクトをさらに複合的に増強させたと思う。
ディズニー映画は古典も含めて小さい頃から“ほぼすべて”と言っていいほど鑑賞してきていたのだが、なぜか「101匹わんちゃん」については未鑑賞のまま四十路を越えてしまっていた。
さらには、本作の一応の後日談と関連づけられるグレン・クローズ主演の「101」と「102」も完全スルーとなっていて、必然的にディズニー映画のヴィランを代表する一人でもある“クルエラ・ド・ヴィル”というキャラクターに対する知識がほとんど無かった。
そのことが、観よう観ようとこの数年間思いつつ、つい後回しにしてしまっていた要因かもしれない。
長々と言い訳めいたくだりを綴ってしまったが、つまるところ、もっと早く本作と“クルエラ”というキャラクターを堪能するべきだったという話である。
近年ディズニー映画やアメコミのヴィランを単独で描いた作品は数多く製作されているけれど、ヴィランの前日譚として、これほどまでにエキサイティングで、ファッショナブルで、エモーショナルな映画は他にないと思えた。
何を置いても、“クルエラ”というディズニーヴィラン界きってのアイコンを演じたエマ・ストーンの表現と立ち振舞のすべてが最高だった。
本作は、過酷な運命を背負った少女が、悪意と虚栄まみれのこのクソ美しい世界で生き延び、成長し、自らが孕む才覚と狂気性のみで“生き残る”という人生賛歌だと感じた。
エマ・ストーンはその主人公像を、あらゆる表情と、あらゆる声色と、あらゆる出で立ちで体現し、映画内外の大衆を魅了している。彼女の存在を観ているだけで終始心の震えを覚える感覚。そこには映画世界を超越した絶対的悪女の「支配力」があった。
後悔と絶望、希望と復讐を経て、元々“エステラ”という名だった少女は、“クルエラ”として文字通り“生まれ変わる”。
ブラック&ホワイトの奇抜な髪色は、アンビバレントな彼女自身の人間性と、闇と光、汚れと美が混濁するこの世界そのものを象徴するものだった。
おそらくは、本作を鑑賞した人たちの心象も、相反していたり、全く異なる感情を持つこともあるだろう。実際、アニメ映画の実写化だったり、勧善懲悪のダークヒーロー映画だったり、究極のファッション映画だったりと、様々な側面を持つ作品である。
いずれにしても、その「多様性」こそが、本作が導き出すテーマの本質なのだと思う。(そのテーマ性も「哀れなるものたち」に通ずるものを感じる)
兎にも角にも、僕にとっては、個人的な趣味趣向にダイレクトに突き刺さるフェイバリットな一作となったことは間違いない。