1.なるほど、「ズタズタ」版だったんですか。思いきった編集をするなあと思いながら観ていましたが、「ズタズタ」版だったとは知りませんでした。でも、そうゆう目で観ると、どこをどう補足すればいいのかは解らないまでも、どこが抜け落ちているのかはだいたい見当がつきます。プロットは正確です。『市民ケーン』でみられる舞台劇と映画との融合はここでも健在。パンフォーカスに長回し、ローアングルといった技法は、この融合のための一つの手段でしょう。シーケンスとシーケンスのつなぎ目も、フェードやアイリスなど用いて、まるで舞台の幕間を思わせるような演出です。ラストでみせるキャスト、スタッフ紹介に至っては、さながら舞台を観終えたかのような印象を与えています。舞台劇をどう映画で表現していくか。舞台劇で不可能なことを映画で表現してやろう。もともと舞台劇を本業としていたオーソンウェルズの映画作りの原点はここにあるのではないかと思います。もっとも映画史的にみれば、舞台劇と映画は切っても切れない関係にあり、舞台をそのままフィックスショットのワンカットで納めていたこともあったわけですから、ウェルズの所業はむしろ原点回帰とも言えなくもないでしょう。時代に翻弄されるアンバーソン家の栄枯盛衰になぞらえて語られる古きものへの思い。自動車になぞらえて語られる科学の進歩への警告。ウェルズの映画史的な位置づけについては、多方面で語られていると思いますし、総じて斬新な革命児という評価に落ち着くであろうことに異論はありません。しかし、彼のフィルムからは、「古きものへの愛情」といった革命児のイメージとは相反するものを同時に感じてしまうのも事実です。ひょっとしたら、映画は何も進歩していないのかも知れない。そして人は何も進歩していないのかも知れない。いや、そもそも進歩しないものなのかも知れない。革命的なフィルムの中にあって、こうゆう普遍的な哲学を感じてしまうのです。