3.過去に訳ありの殺人術に長けた男が、孤独な少女と出会い、彼女を救い出すために決死の闘いに挑む……。
プロットそのものはあまりにありふれており、同様の作品は世界各国で量産されている。
そしてタイトルは“アジョシ(=おじさん)”。飾り気の無いそのタイトルは、食傷感を助長するには充分だったと言える。
韓国映画の全体的なクオリティーの高さは認めつつも、価値観の相違による居心地の悪さから若干の苦手意識もないことはない自分としては、某ラジオ番組で絶賛されていなければ、きっと見向きもしなかったろう。
結論としては、“食わず嫌い”をしなくて本当に良かった。この映画をこの“タイミング”で観なかった場合の損失はあまりに大きかったことだろうと思う。
“タイミング”という表現の意味の対象は、主演のウォンビンに他ならない。
今この時期のウォンビンという俳優の「凄さ」と「可能性」を知っているかそうでないかでは、今後の韓国映画に対する捉え方が大いに変わってくると思う。
即ち、今後彼の出演作は漏れなく注目していかなければならないということだ。
そう言ってしまって過言ではない程、前出演作「母なる証明」に続き、この美形俳優の存在感が半端なかった。
異性が求める「男性」の魅力の究極の様を同性でありながら強烈に感じずにはいられない。
その元来生まれ持った天性の美貌を更に高め爆発させるように、俳優としての存在感が際立ってきている。
孤独を深めていた男が徐々に怒りを爆発させていく。
その鬼神の如き様は、戦慄を覚えると同時に、自らに対する何かしらの“救い”を求めもがいているようにも見え、激しく感情を揺さぶられた。
鮮烈なバイオレンス描写の中に、これ程までセンシティブな情感を映し出した映画は中々ないと思う。
その総てを己の身体一つで表現している主演俳優の素晴らしさ。そして、彼の存在に説得力を与え、より際立たせている映画構成の巧みさに感嘆する。
ウォンビンの惚れ惚れするような体躯と同様に絞り込まれたタイトな演出と、端役に至るまでしっかりとキャラ立てがされている人物描写の上手さが、ありきたりなプロットの上に成り立つ映画を唯一無二の高みへと磨き上げていた。
こういう映画を長編第二作目の新鋭監督が鮮やかに作り上げてしまう隣国の映画制作のレベルの高さに、毎度のことながら驚き、ついつい羨望の眼差しを送ってしまう。