1.《ネタバレ》 多くの映画が2時間で主人公の一生を描ききるように、時間の跳躍は映画の醍醐味である。観客は我を忘れ小気味良いこの跳躍に酔いしれる。一方、長回しはこの小気味良さから我々を現実的な時間軸に引き戻し覚醒させる技法である。ではそうした長回しを用いて映画を撮ることの意味とは一体何だろう。その一つの答えを蔡明亮は本作で提示している。カットを割ることなくカメラが空間を捉え続ける時、それを観る我々の時間は自ずとスクリーン上に描かれるその時間と同調し、ぴたりと重なりあい同じ秒を刻む。そのとき私たちは画面に映し出される映画と、時間をそして空間を、共有する。恰もその場に居合わせたかのようにその瞬間を「体験」するのだ。本作でも多用される固定カメラによるワンシーンワンカットの長回しには、映し出される被写体の動きや変化が不可欠となる。フィックスの構図で何ひとつ変化のない光景を映せば静止画と判別がつかない。だからこそ、下心を秘め彷徨する男たちや、しどけない年増女の怠惰な蠢きですら、この空間に息を吹き込む生命となる。びっこを引きずり通路や階段をのろのろと行く女従業員の陰気な歩みも、画面の奥でひたすらに窓を打つ激しい雨垂れもだ。あるいは映写技師不在の映写室で彼の残したタバコの吸いさしから立ち昇る幽かな紫煙のゆらぎ、それだけでもいいだろう。映画を映画たらしめるそのささやかな動きすら失った時、映画は死ぬ。だが驚くべきことに蔡明亮はそれを実行する。かつて栄華を極めながらも楽日を迎えた映画館。最後の上映を終えライトに照らし出された夥しい客席を、先述の女従業員がのそのそと横断しやがてフレームアウトする。一切の動きを無くした巨大な空間は、無音の静止画となり、ただそこに横たわる。映画が映画としての機能を停止する(=死ぬ)この数分間にも及ぶ「静止画」に込められる万感の思い。主を失い時を止め今まさに息絶えた映画館に、カメラはただただじっと寄り添い続けるのだ。まるで最後のその別れを惜しむように。そうして蔡明亮は、映画の死を以て映画館の死を悼む。土砂降りの中をバイクで去っていく映写技師を見送り、女従業員もまた違う方角へと歩いていく。彼女は気づいただろうか。男がバイクに跨るほんの一瞬ヘッドライトが照らし出した緑色の炊飯器を。その中には彼女が半分残した巨大な桃饅頭(まるで哀悼の意を表す葬式饅頭のようでもある。)が息をひそめている。