2.《ネタバレ》 「イージー・ライダー」を動とするなら、「ファイブ・イージー・ピーセス」は静である。エリート音楽一家に生まれ、将来を嘱望されながら石油採掘場で肉体労働に従事するボビーは、自由を求めてアメリカ中を旅するキャプテン・アメリカ&ビリーのコンビとは対照的な存在だ。彼らに共通しているものは唯一つ、現実からの逃避。混迷する時代の中で、将来への夢も目的も見失ったアメリカそのものの姿を象徴するかのように、その日暮らしを続けるボビーの日常。逃げることしか生き延びる道を知らないボビーの前に、言葉を失くした父は答える術を持たない。ただ無学であるがために、したたかに明日を生き抜いて行くであろうボビーの恋人レイの無垢な瞳だけがこの映画の救いだろう。ラストシーン、妊娠した恋人からも逃げ出したボビーの帰りを疑いもせず待ちながら、雨のしょぼ降るガソリンスタンドでコーヒーの紙コップをかじり続けるレイの無欲な眼差しこそ、精神の崇高な自由という幻想に追い詰められて行った60年代のアメリカが見落としていた真実そのものなのだ。逃げるアメリカ。汚辱にまみれたその魂の再生を予知するかのように、無知で愚かなレイはボビーが戻るのを待っている。おそらく彼女はその愚鈍さで、たくましく赤ん坊を産み育てて行くだろう。「イージー・ライダー」を編集段階まで監督しながら、ついにクレジットされることのなかった監督ボブ・ラフェルソンが、再びジャック・ニコルソンと組んで作り上げた、この作品はアメリカン・ニューシネマというムーヴメントに対する一つの答えでもある。