4.《ネタバレ》 森下麦子はキャリー・ホワイトである。ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』は、家庭にも学校にも居場所を見出せない孤独な少女を悲劇的に描いた傑作だが、市川準監督は怒りと悲しみのなかで死んでいくしかできなかった少女キャリーへのレクイエムとして、この映画を撮ったのではないか。そう思えてならない。『BU・SU』の主人公森下麦子は、キャリーのようにいじめの標的にされるわけではない。むしろ陰湿ないじめを目撃すれば独り敢然と立ち向かうような少女である。つまり彼女の孤独は周りのだれかのせいではなく、彼女自身が選んだ自分自身で乗り越えなくてはならない問題として描かれていく。周囲の人々も、キャリーを助けようとした熱心な教師や同級生のような慈善的な人物は描かれない。彼女の叔母や担任教師ら大人たちの、柔らかくも程よく距離感をもって接するような描写が秀逸だ。麦子は決して救いの手を乞うているわけではないからだ。世界の片隅でじっと押し黙り所在なさげに生きるこの少女を、カメラもまた一歩引いた距離をおいて捉え続ける。切り取られた東京の風景、そこに異物として埋もれるように溶け込む麦子、あるいは学校の駅を乗り過ごし千葉の住宅街をあてどなく彷徨する彼女の姿は、孤独な青春の心象のように忘れがたい印象をのこす。文化祭の演目で失態を演じ、会場の笑い者となる麦子。市川は、『キャリー』においては悲劇の引き金となったそのシーンをそっとスライドさせ、その哄笑のなかにキャリーが決して見ることのできなかった、笑わず真剣に彼女を見守る幾人かの顔を映し出す。それはおそらく麦子を見つめる市川準の視線でもあるのだろう。その目はさりげなくも温かく、そしてとてもやさしい。キャリーのように体育館を火の海にすることなくファイヤーストームに火を灯す麦子。彼女にそうさせたのは同級生津田君の半ば強引な牽引なのだが、劇中麦子にだれかの手がさしのべられる唯一のそのシーンの、なんと力強く感動的なことか!青春とはバイオレンスのない闘いなのだろう。自分との孤独な闘いを一旦終え、晴れ晴れとした顔を蛇口で洗う麦子。青春は決して美しいものではない。けれどだからこそ最後の最後ではじめて見せる彼女の笑顔は、たまらなくいとおしい。個人的には、青春映画において森下麦子を超えるヒロイン像はこの先も出ないだろうと思う。