1.邦題『どっちにする?』。
英語タイトル『What your chice?』。
「象は鼻が長い」を挙げるまでもなく、日本語は主語を省略するのではなく元々が無人称の論理を許す言語である。時として漢詩にも無人称構造があるのだが、日本語の方が先鋭的。全く似て非なる英語俳句がもてはやされるのも、日本語が持つこのあたりの、ヨーロッパ言語の息苦しさを自然体で否定した「軽さ」の魅力によるものじゃないかと思っている。イタロ・カルヴィーノがヨダレを流して喜びそうな言語環境に、我々は住んでいる(世界中から「このバカが」と冷笑されてるような、パラノイア的妄想が生まれないでもないが…)。
さて、その意味からすると邦題と英題は人称のあり/なしによって意味する所が違うのだが、日米の子供たちの絵から産まれた本作は両方が正しい。この微妙な矛盾をはらんだコンセプトが、ちょっとした魅力のアニメだ。
様々な選択を迫られるキャラクターたち。果物を選ばずに電球をうまそうに食べる虫もいれば、床屋も歯医者もキライという子供もいる。選択肢はあるのだが、選択肢自身から自由である人々の、何だかおかしな暮らしぶりは楽しく、人生はポジティブに軽い。
「I/You」の存在する世界では、どっちにするかは非常に重い。ひとつひとつの選択が積み重なって、やがては自己を形成して行く。選択には責任が伴っているのだ。日本語はそれを無視する。「誰が」選択をしているのか、そこにはっきりした主体はない。この軽い無責任感が、日本語の信条なのかもな。
この短編は、各言語文化圏の、映画における人称の特質に触れてしまっているかもしれない。意識しない領域で。
本作に続く山村監督の代表作『頭山』は、純日本ネタであると共に意識して描かれた無人称作品であり、無人称の罪深さ・幼児性を告発した作品だ。本作の製作時点で、そういう表現方法へ目が向いていたのかもしれない。