1.《ネタバレ》 井川遥が良い。膝を抱え涙を堪えながら俯いている瞬間々々が素晴らしい。
しかし残念ながらこの映画の他の瞬間はほとんど駄目だ。
登場人物たちの感情は隠され、生きている感じすらせず(実際、玄関で笑福亭鶴瓶演じる伊野を送る八千草薫演じるお婆ちゃんもガラス越しに手を振る変なお婆ちゃんも、まるで死んでいるか幽霊のように映る。それは凄くいいが映画に対して何の作用もない)、また彼らのその表情には裏腹さが潜む。それは脚本上の彼らの感情であり、その時々、映画としての瞬間の感情ではない。だからこそ何の裏腹さも含まない、ただ母を心配するだけの瞬間は素晴らしい。
つまり西川監督が描く人物たちは脚本上の人物であり、映画としての人物ではない。
どんなに台詞や物語が良くとも、映画としては昇華されていない。
伊野が何故「ああ、やめた」になったかということだが、結局は責任の放棄だが、むしろただの約束の放棄にも見える。八千草薫演じるお婆ちゃんとの約束は「医者として」の約束というよりは「人として」の約束だったろう。しかし告知への恐怖から「娘には絶対に言わない」という約束への後悔は起ったが、医者を始めたことへの後悔は起きていない。最後に病状だけを伝えたのはただの恐怖心からだ。つまりライセンスを持たず治療をし続けたことへの慚愧の念はこの映画にはないのだ。「医者として」の責任の重圧から逃れる為に「人として」の約束を破った、となればこの映画に描かれた伊野は「医者として」の資格も「人として」の資格もないということだ。
医療をやるには絶対的な「覚悟」が必要だろう。それは人の命に関わる仕事だからだ。にも関わらずこの映画は、そういった「覚悟」の必要性には無頓着で、伊野は弱いけど優しい人なんだよという呑気でどーでもいいことを提示して終わる。本物よりも偽物でいることのほうがよっぽど「覚悟」がいるはずだ。それを理解していないからこそ、またしてもお茶汲みの偽物に扮して伊野を登場させてしまう。
この映画は医療や過疎化に触れるがそんなことはどーでもいいようだ。ただ、本当に人を救い支えるとはどういうことかを描きたいだけなのかもしれない。それはそれでもいい。映画なんて啓蒙的である必要はない。しかし、医者を「ああ、やめた」という男だけど優しい人という、30歳過ぎて無職だけど優しい彼氏みたいなどーしょもない人を2時間もかけて描く必要もない。