1.《ネタバレ》 ウディ・アレンの新作が見られるのはコレが最後になるのかしらねぇ。#MeToo運動の流れによって過去の性的虐待を問われハリウッドを干され、この作品もアメリカ本国では上映が中止、出演者達は出演を後悔していると発言したり、揃ってギャラを寄付したり。
この映画そのものも、そんなアレンを映す皮肉なモノになってしまっているカンジがしないでもないわ。本来、映画作品自体と、それを作った個人とは別モノとして捉えるべきと思うのだけれど、ウディ・アレン作品は彼そのものを強く映している場合が(とても)多いので、どうしたってそこに彼自身を見てしまうのね。
しかも今回の作品に出てくる男達は映画監督、脚本家、俳優、そして神経質でシニカルなニューヨーカーの主人公。ハッキリとウディ・アレンの人格を複数のキャラクターに分割して描いているようなモノだもの。
男達は総じてダメ人間。スケベでだらしなくて身勝手で。その男達を無自覚に、あるいは自覚しながら翻弄してゆく天然系おバカなお嬢さんなエル・ファニングと、主人公が最後に理想として選ぶ辛辣で容赦ないセレーナ・ゴメス。
そこにあるのはひたすらウディがそうやって生きてきたことに対する言い訳がましさと、彼にとっての一方的で身勝手な都合のいい女性観。自分はダメなヤツだからそんな人間を支える女性はこうあって欲しい、ってのがダダ漏れていて、主人公の母親の境遇に対する視点、主人公のその捉え方まで含めて、本当にダメ。
そして、そういう意味では自虐っぽく見えて実は言い訳ないつもの毎度おなじみアレン作品ね。ただ、今回はその背景に#MeTooが透けて見えてしまう、と。
コメディとしては面白いわ。どんどんすれ違って予想もしない方向へ進んでゆく2人の物語。会話やモノローグの楽しさ、個性的な登場人物(お兄さんの婚約者のアレとか)。
ニューヨークの風景も良かったけれど人工降雨機使うんじゃなくてホントの雨のニューヨークのニオイを感じさせて欲しかったとは思うし、アメリカの夜を(ハンパに)使うのもアレンの後ろ向きな映画作りを感じさせちゃうわね。
アレンの映画はずっと、先へは進まずに過去ばかり見ているカンジがあって、でももう時代はそれを許さなくなっていて、これはそんなアレンのひとつの区切りの映画、かなり象徴的な映画となってしまったのかもしれないわ。