4.《ネタバレ》 現代のサラリーマンと封建時代の藩士の雇用での最大の違いは、藩主と藩士の雇用関係が永代就職であること。つまり、ある役目(仕事)をその家の家督者が代々引き継いでゆくというもの。土地も家も藩主から拝領しているものなので、武士の身分である限り、独立は叶わない。更に職分が硬直していて出世することはほとんどない。これは、藩士は子子孫孫に至るまで藩主には頭が上がらないことを意味する。不祥事と起こせば一家のみならず、連座制により親類中にも累が及んだ。がんじがらめである。これが藩主に対して「絶対服従」であらなければならない理由である。ここに悲劇の生まれる土壌がある。藩主は時に放恣、専横になるだろうし、藩士は忍従、卑屈に傾いてゆくだろう。だから「武士道残酷物語」はあったに違いないと思う。だが問題は見せ方である。
不運の宿縁の連鎖が七代も続くことにいささか無理がある上に、各話の主人公を同じ役者が演じているのでは現実味に欠ける。ギャグとしか思えない。同一人物が近習小姓から老人役までを演じる必要性はないだろう。どう考えても不自然だ。純粋に武士の被虐性を表現したいのなら、そのような不合理な設定をするわけがない。「大人の事情」が働いているのだ。だから白けてしまう。
江戸時代の各話はそれなりに興味をかりたてられた。個人の力ではどうすることもできない重圧、運命、特殊事情がくみ取られ、主人公の悲しみ、苦しみに共鳴できた。しかし明治以降の各話は底が薄い。元廃嫡藩主を世話をする話はいくらなんでも作り過ぎ。先祖の不幸を考えれば、藩主に対してあのような憐憫を持つ筈がない。特攻の話は、取り立てて特殊性が感じられない。国家により国民がマインドコントロールされていた時代で、飯倉家だけが不幸を背負ったわけではない。現代サラリーマンの話は、完全に自業自得だ。産業スパイを誰に強要されたわけではない。自分達の利得に目がくらんだだけの話だ。それに会社組織を藩に見立てることはナンセンスだろう。会社がいやなら辞めればいいだけの話だ。武士よりも土地持ちの百姓の方が自由があった。サラリーマンはそれ以上の自由を持っている。自分達の不幸を会社や社会の所為にするのは慎みたいものだ。