2.映画版独自の設定として舞台が1994年にされていますが、この時代設定が絶妙でした。それはバブル崩壊後の混乱期に当たり、数年前まで約束されていたはずの将来が目の前で崩れ去った現役世代は地獄の苦しみを味わっていました。専業主婦だった梨花が銀行へのパート勤めを始めた理由について劇中では触れられていませんが、こうした時代背景において、夫の収入だけでは生活が成り立たなくなったのかもしれません。一方で、バブルを勝ち逃げした老人世代もいました。現役世代がリストラに怯えながら仕事をしている一方で、遊びのことしか考えていない老人や、ひたすら蓄財に励むドケチ老人がいる。こいつらだって、若い世代の生き血を吸って私服を肥やす盗人ではないのか?こうした世代間格差が、梨花のモラルを低下させる一因となっています。少なくとも初犯は、富める老人から恵まれない若者への所得の移転を狙ったものでした。
しかし、一度あぶく銭を手にしてしまうと、それは癖になってしまいます。さらには、40才の主婦が20代のイケメン大学生から惚れられるという、今後の人生で二度と訪れないであろうチャンスを掴んだことや、ナイスタイミングで旦那の単身赴任が決まったこともあって、「後は野となれ山となれ。ここで楽しむしかないのよ」と、梨花は刹那的な生き方にどっぷりと浸かってしまいます。恋することでどんどん綺麗になっていく宮沢りえの姿が梨花の行動を心情的に応援したくなる要因ともなり、私は梨花の気持ちに同調して映画を見ることができました。結果的にヒモとなってしまう光太についても、その心情がうまく描写されています。当初は身内でもない人からお金を受け取ることに抵抗を示しているし、その後においても梨花に対して積極的に要求したことはありません。しかし、普通の20代では味わえない贅沢をさせられることで倫理観は徐々に低下し、「このお金はどこから来ているのか」という正常な猜疑心も失われ、さらにはまともに働こうという気力まで奪われ、本来は悪人ではない彼が人間的に腐ってしまうのです。これぞお金の魔力。恐ろしいものを見させられました。
恐ろしいと言えば、梨花の着服を暴く隅より子(映画版オリジナルのキャラ)の存在も同様で、すべてを見透かされているような眼光の鋭さ、職場のお局様特有の容赦のなさが素晴らしく、彼女の存在により、本作は一流のサスペンス映画にもなっています。