1.観客はそれが嘘であると知りつつ映画の「演技」を見ており、しかしフィルムという「記録」を見ているとも知っている。そういう劇映画のややこしさが面白さを生むのだが、ストイックな監督には演技への不信をもたらすのか、「演技をさせない監督」ってのがいつの時代どこの国にも生まれ、たとえばブレッソンは核だけの硬質な世界を作ったが、我が清水はほのぼのとした独自の世界を築いた。映画におけるリアルってことは、単なる写実と違って面倒くさいのだ。それを変に考え込まず、こういうほのぼの世界を作ってくれたのが日本の栄誉。一応冒頭は棒読みでもおかしくない「案内」のせりふから始めているのは、映画の客への気遣いか(戦災孤児が奈良のガイドをやってくって話)。印象に残ったシーンとしては、川をはさんで二人の追い掛けを行ったり来たりやるところ。欄干の上を歩くのは監督の映画でよく見た気がする(『子供の四季』?)。「一緒に東京へ」と切り出す前の、主人公の庭から帰っていくところを、室内を横切る斜めの移動で撮るところ(『小原庄助さん』にも見事な斜めの屋内移動があった)。建造物に合わせた超ロングが多く、これも演技を奪う効果がある。小僧さんが日傘をさして豆腐を買いに行くところ! そしてラストの見事さ。監督の演技法と同じ理屈だ。本作唯一の欠点は音楽で、もうちょっと加減してよ。