12.ベッドに仰向けに横たわる主人公が目を見開いているファーストカット。
映像が静止しているのか、もしかしたらこの人物は絶命しているのかとすら思ってしまう程、彼の瞳に光は無い。
無気力なまま起き出した彼の後に残る乱れたシーツを背景にメインタイトルが浮かぶ。
その冒頭数十秒のカットを観ただけで、この主人公の“悲しさ”が染み入ってくるようだった。
映画全編において繰広げられるものは、ただただひたすらな“セックス”。
やってもやっても満たされない。悲しく、狂ったようなセックスシーンに丸裸にされた感情が掻きむしられ、痛い。そして、涙が滲み出る。
ただ無様に性欲の衝動に溺れる主人公の姿が、悲しくて、辛い。
見紛うことなきセックス依存症。彼がそうなってしまった理由とは何だったのか、彼が本当に「依存」していたものは何だったのか。
彼がひた隠しにし続ける「shame【恥部】」は、ついに明らかにはされない。
ただし、彼のありのままの姿を終始見せつけられた観客は、その真相を“予感”せずにはいられない。
その“予感”に対して、また深く悲しくなる。
手塚治虫の短編集「空気の底」の中の一編に「暗い窓の女」という作品がある。この映画を観て、真っ先に思い出されたのは、この短編だった。この短編に限らず、手塚治虫の作品には“あるモチーフ”が度々描かれる。
監督スティーブ・マックイーンが、手塚治虫の漫画を読んだことがあるのかどうかは不明だけれど、この物語感覚の類似は非常に興味深かった。
何と言っても主演のマイケル・ファスベンダーが素晴らしい。文字通りに“すべてを曝け出している”その姿は、どこまでも痛々しく、滑稽で、“人間”とは何て悲しいんだと思えてならなかった。
そして、彼がここまで曝け出すことが出来ているのは、スティーブ・マックイーン監督への絶大な信頼が礎にあるからこそだろう。それを引き出し、完璧に仕上げたこの新鋭監督の力量はまさしく本物だ。
「私たちは悪い人間じゃない。悪い場所にいただけ」と、妹は兄にメッセージを残す。
主人公は冷たい雨の中さめざめと泣き伏せる。
果たして、彼は「依存」から逃れるための答えを見出すことが出来たのだろうか。
それすらも敢えて明確にせず、主人公の不穏な表情を映し出したまま映画は終幕する。
凄い。
観賞後シャワーを浴びながら、ざわざわと惑う心情を必死になだめた。