16.久しぶりに、こういう「言葉」で説明するべきではない映画を観たような気がする。数年前までは、こういう映画ばかり観ていたものだが……。
“人を自殺に追い込む”奇病の世界的蔓延。
人類に残された道は、もはや「滅亡」しかない、という無力感から始まるこの物語。
唯一の“救済”の可能性として、僻地にて隠遁生活を送る二人のミュージシャンが放つ「音楽」を求めて、少女がやってくる。
はっきり言って、そのストーリーには、リアリティもなければ説得力もない。非常に脆弱な物語である。
しかし、この映画の「目的」は、ストーリーを繰り広げるというところにない。
“救い”として取りざたされる「音楽」そのものが、この映画の主題であり、主人公である。
その音楽でさえ、造詣のない者にとっては始めのうちは、ただの「騒音」でしかない。
ただただ“騒がしい”だけの爆音に、思わず耳を塞ぎたくなった。
確実に中だるみも、する。
が、非常に不思議なのだが、映画が展開してゆくにつれ、次第に「騒音」が何かしらの意思を持った「音」へと変わっていき、「音楽」となって脳内に染み渡ってくる。
そして、「音楽」はついに神々しいまでの「振動」となって精神を包み込んでくる。ような気がした。
元来得意なタイプの映画ではなかったが、その奇異な新体感と、絶対的に特異な映画世界の中に、ごく自然に息づいてみせた浅野忠信と宮崎あおいの存在感は、価値の高いものだと思う。
人が「生きる」ということに本来意味などない。生きたいから生きる。ただそれだけのことだ。
ならば同様に、「死ぬ」ということにおいても、意味などないのだろう。
すなわち、もしそれらを促したり、抑止したりする「方法」があるとするならば、そこに「理屈」などある筈もない。と、いうこと。