115.《ネタバレ》 ヴィットリオ・デ・シーカは「ひまわり」や「ウンベルト・D」の方が好きだが、この映画も自転車をめぐって動いて動いて動く傑作だ。
かといって、「盗んだ自転車で走りまくるアクション映画」と思ってみると肩透かしを喰らう映画でもある(残念ながら俺がそうでした)。
だが、2、3度見返す内にそんなものはどうでも良くなる。たかが自転車。されど自転車。
とにかくシンプルで面白いではないか。
自転車で走り、自転車をかつぎ、自転車を盗まれ盗んで逃げる・・・それだけでワクワクしてしまう。
市場で目撃するバラバラのパーツとなった自転車。
一見何の不思議もない光景だが、盗まれたものにとってこれほどゾッとする光景も無い。
盗まれた自転車は人身売買や臓器売買されてしまう人々の如くバラバラにされ流出してしまうかも知れないからだ。
まして自転車一台が生活を左右するほどの時代なら尚更。
降り注ぐ雨が余計に焦りを感じさせる。
更には人々の群れや家と家に“隠され”、真実を言っているのか騙しているのか解らない疑心暗鬼が渦巻く。
盗まれた者にとっては半身をもがれたも同然。
家族を食わせるために必要なアイテムであればあるほど、時として子供や妻以上の価値にまで昇華されてしまう恐ろしさ。
劇中の一本調子も、そうやって家族を思う余りに狂気に染まる一面を描いているのではないだろうか。
第二次大戦直後は戦災で家を焼かれ、職に就くのもあくせくしていた時代。
ペンキ塗りのバイトをするにしても、自転車が無けりゃ何も出来ない。
廃墟となった街、たった一つの職にまるで蟻のように群がり必死に喰らい付くほど追い詰められた人々。
自転車を盗んだ男も、一本調子に自転車を返せと叫ぶ父親も、明日をも知れない労働者たちの苦しみがにじみ出る。家族を思うあまりミイラ取りがミイラになっていく。
だが悔しい事に、自転車を盗んでいく野郎の姿は憎しみをたぎらせると共に、その一瞬の隙を付いてまんまと盗み出してしまう鮮やかさ。
というか、もしも盗む側の視点で物語が進めば観客の受け取り方も大分違うものになっていただろう。
バレなきゃ罪にならず、バレたとたん集団で襲い掛かる群集心理。
街の美しい風景や美味い食事も、必死に働く彼らには一時の気休めになるかならないか。心に余裕が無いからだ。