4.週末深夜、先刻までエンドロールが流れていたテレビの光が消えて、暗い部屋の中で思わず天井を仰いだ。「つらい…つらいな」と、一人何度もつぶやきながら、静かに寝床に就いた。
気がつくと、その夜から一週間が経っていた。なかなか、この映画に対する行動を起こすことができなかった。これほど“ダメージ”を負った映画鑑賞は久しぶりだった。
その間も、本作で若手実力派俳優の筆頭となった主演女優は、幾度も数々のCMに登場し、その都度そのCMで見せる彼女の笑顔とはあまりにも遠くに存在する“あんのこと”が思い起こされて、またつらくなった。
「つらい」と感じた一番の理由は、とても悲しくて、残酷で、愚かしいこの物語が、すなわち主人公“あん”の一生が、決して特別な絵空事ではない「現実」であることだった。
今この瞬間も、毒親に虐げられ、貧困にあえぎ、虚無的に、もしくは盲信的に、過酷な日常を過ごしている子どもたちが、この国には確実に存在しているということ。
陰鬱で、目を背けたくなるシーンが何度も訪れる映画だったけれど、それは今この国に生きるすべての“大人”が直視すべき事実であり、ゆえに多くの人が鑑賞すべき作品だと思った。
“親ガチャ”や“環境ガチャ”、“国ガチャ”という言い回しは軽薄で好きではない。けれど、事実としてそれは確実に存在し、生まれて育った「環境」によって、人生の幸福度は勿論、人格形成そのものが大きく左右されてしまう現実が、本作のような不幸を無数に生み出している。
新聞の小さな三面記事で伝えられた或る事実から着想し、描き出された本作は、ひたすらに問い続けていた。
おぞましいまでの毒親の元に生まれ落ちた子どもは、絶対にその支配下で生き続けなければならないのか。
介護を要する家族を持つ若者たちは、自らの機会と可能性を摘んで献身し続けなければならないのか。
学ぶ機会、働く機会を失った者は、いつまでもこの社会の底辺で息を潜めるように生きなければならないのか。
国と国の争乱の中で生活している者たちは、常にその生命をさらして、絶望に埋め尽くされなければならないのか。
人の世は本質的に不平等なものだし、人が生きていく上で「運」は多分に必要だけれど、それでも看過すべきではないそんな無数の不幸に対して、この社会が今本当にすべきことは何なのだろうか?
僅かな光を手繰り寄せて、更生の道を歩み始めていた主人公は、小さくて儚い「希望」を確実に手にしていた。でも、それはするりと彼女の手からこぼれ落ちていった。
客観的に見れば、それは彼女の人生においてそれほど大きな悲劇には見えない。もっと大きな苦痛の中を彼女が生き抜いてきたことを知っているから。
だがしかし、自分の人生に初めて「希望」を感じたからこそ、彼女は初めて拭い去れない「絶望」を感じてしまったのだろう。
“コロナ禍”がその「絶望」へのきっかけを生んだことは間違いないとは思う。
でも、本質的な原因はもっと根源的なこの社会の機能不全なのだと思う。
主人公の母親が毒親であったことが彼女の不幸の本質ではなく、その毒親を生み出して負のスパイラルを生じさせたこの社会の経緯こそが不幸。
素行不良の刑事が自らの地位を利用して、更生者の女性を手籠めにしていたことが問題の本質ではなく、彼しか薬物依存者の更生に真剣に向き合う人間が存在しなかったことこそが問題なのだ。
この映画の最後の顛末では、主人公が生きた意義を“救い”と共に映し出しているように見えるけれど、私はそこに“救い”があったとは思わない。
彼女は、結局救われなかった。それが事実であり、現実だ。
本当に、もう少しだったと思うし、彼女と同じような道程で更生し、過去から脱却し、自ら幸せを掴み取った人たちも数多くいるのだろう。
でも、彼女は、“あん”は、救われなかった。
この社会に生きる一人ひとりが、その事実“あんのこと”に対する怒りと悔しさを、歪めず、直視することこそが、この映画の願いだと思うのだ。