1.温泉宿というのは湯上りの艶かしさから「男」と「女」の危うい関係を湯煙の向こうに垣間見せ、フィルムに湿った情感を貼り付けます。清水宏さんは、後年にも温泉宿を舞台に『簪(かんざし)』を撮ったり、温泉情緒が好きだったようですね。さてこの作品ですが、按摩さんを主人公に「目が見えない」ことを語るのは、今の世俗の価値観ではまぁ考えられません。『菊次郎の夏』でたけしが杖を振り回すような意味(ギャグ)を持つのではなく、ここでは按摩さんが実にのびのびと自然に杖を振り回し、そこには意味がないのです。「目が見えない」按摩さんが普通にいるのです。その按摩の前に登場するのが、高峰三枝子。そこにいるだけで「女」を意識させますな~、あの和服、傘。そして子ども。男女の機微に盲目な子どもの自然な振る舞いと台詞が「男」と「女」をさらに意識させます。目が見えないから心の目で真実が見えるといった常識に落ち着かず、ラストの雨。温泉場の湿った情感に、さらに潤いと艶を与えるこの雨のラストに「男」と「女」、そして清水宏を感じるのです。