1.「型破り」だ。
これまでの「スター・ウォーズ」が培ってきた物語性、キャラクター性をはじめとするあらゆる「定型」をきっちりと踏襲するように見せて、そのすべてをぶっ壊している。
「この先はこうなるのだろうな」と、多くのSWファンが無意識レベルで認識していた予定調和を尽く覆す。
SWのヒーローはこういうものだ。SWの悪役はこういうものだ。
永い永い時間の中で培われてきた「型」を匂わせておいて、清々するほどの豪胆さで反転させるストーリーテリングには、当初困惑を禁じ得なかった。
しかし、ひたすらに展開される予定調和からの脱却を目の当たりにして、次第に「全く新しいSWを観ている!」という充足感に満たされてくる。
繰り返される光と闇の争い。その根幹に存在する“或る真理”が朧げながらも見えてくる。
それは、“スカイウォーカー”の名と血を巡る「英雄譚」であった旧シリーズでは踏み込みきれていなかった領域だ。
自分が「何者」であるかを追い求める物語性から、「何者」でもない者が果たすべきことの意味と価値を追い求める物語への転換。
“合わせ鏡”の中に映し出された存在が何だったのか?
お前が現時点で「何者」であるかなど関係ない。お前はお前であり、それ以上でも以下でもない。重要なのは、今この瞬間から何を成すのかということ。
そういうことを、「最後のジェダイ」のレッスンは強く訴え、物語っている。
臆病者の心優しき脱走兵は、恐怖に対峙する勇気を持つ。
向こう見ずなエースパイロットは、軍を率いるための冷静さを得る。
出自の孤独に苛まれ、盲信的に自分自身の存在性を見失っていた主人公は、遂に本来あるべきアイデンティティを見出す。
そして、光と対するように闇に包み込まれた者もまた然り。
まるで「オズの魔法使い」のような様相も覚えつつ、新シリーズの魅力的な主要キャラクターたちの「変容」を描き出すと同時に、彼らと、この「新章」の到達点がうっすらと見えてきたように感じる。
SWのオールドファンにとって、この最新作の在り方は、あまりにショッキングで「邪道」だと拒否感を感じずにはいられないものかもしれない。
だがしかし、SWがこれからも世界のエンターテイメントの中心で“継がれていく”ことが確定した時点で、「定型」を打破することは避けては通れない必然的なプロセスだったのだと思う。
ジョージ・ルーカスという創造主が生み出したSWは、彼個人の鬱積したインサイドの結晶だったとも言え、壮大なスペースオペラの世界観とは相反して極めてパーソナルな作品だった。
だからこそ、この映画シリーズは、個々人のカルト的な憎愛も含めて、世界中の映画ファンに対して強烈な存在感を放ち続けているのだろう。
その創造主の手から離れて、新たな物語が紡ぎ出される以上、定型とインサイドの壁を打ち破り、新たな価値観を示すことこそが、この新シリーズの「意義」となる。
このハードルが高すぎるプロジェクトに挑む製作陣は、誰よりもSWを愛し、リスペクトするからこそ、「新章」を継ぎ、「意義」を生み出すことの価値を信じて疑わない。
そして、この型破りな映画が貫き、継いだことは、圧倒的に正しかったと思える。
ルーク・スカイウォーカーとレイア・オーガナに最大級の敬意を表しつつ、新しい時代(=ジェダイ)の行く先を心待ちにしたい。