5.『大いなる幻影』のように、欧米では国の戦争と国籍を問わない人間同士の友情は別問題としてあり得る。特に映画では階級だったが、それは同じワールドツアーを戦うテニスプレイヤーであるとか、平和主義者という意識であってもいい。共有意識は国籍を越える。これが共同体にとらわれない、公共性、人道主義を生む。
欧米では昔から隣国同士で戦争を繰り返してきた歴史がある。その反省もあり、彼らは、国単位の共同性ではなく、個人単位の公共性(それが合理だと考えている)に照らして物事を判断する。戦争は顔が見えない同士が行っていた。相手を殺戮するときに相手の「人間としての顔」など見ていない。だから敵と味方が明確で、敵を殲滅する動機付けが可能だった。しかし、今、インターネットの時代、グローバリゼーションの時代。お互いの人間、顔が見える。例え報道規制したとしても、動画の拡散は止められない時代。そういう時代の戦争の意味を考えてみるべきだろう。
さらに国民国家の位置づけは昔と違う。人間が国民となり国家となる。そういうイデオロギーの時代ではない。グローバリゼーションはそういった意識を崩壊させたし、それは自明のはず。なのに何故、いつまでも戦争という手段を肯定するのだろう? 顔が見えないと人は内向き、攻撃的になりやすい。お互いの顔を知ることで、国を越えて友好的な関係を築くことは可能である。たとえ戦時下においても、人道主義が有効であろうこと、そういう思想が世界に残っている、残すべきだということ。それが『大いなる幻影』の主題でもある。
カミュに『異邦人』という小説がある。主人公ムルソーはアラブ人を射殺した理由を「太陽がまぶしかったから」と証言する。カミュは大戦中に人民戦線側の記者として従軍を経験しているが、常に何故戦争で人は人を殺すことができるのか? という疑問を抱えていた。彼は『異邦人』の中で、射殺した相手が匿名(アラブ人)で、顔が見えない(逆光だった)存在だったからだと理由を付ける。相手の表情、人間の顔を知らないからこそ、死を賭した戦闘が可能だったのではないかと考えた。
日本でも大戦時の沖縄の集団自決、福田村事件など。相手(異邦人)の人間の顔が見えていたら起こり得なかった自決、殺人であったと思える。今は国を超えて人間が均質化している時代。異邦人ではなく、同じ人間だということが理解されている。それでも戦争がある。
加害者であり被害者。多くを殺し、多くを殺される。戦争とはそういうものだと言う。日本人は経験し、知っている。過去の戦争において、加害者であり、その前提の上に被害者であったこと。加害者の多くは戦時に死んでしまい、戦後、日本人はその当事者性を引き受けてこなかったが、本来、日本人は紛れもなく80年経った今でも当事者であり、それ故に、その知見故に、堂々と戦争に反対であることを表明すべきだろう。
人は幻想によって、より良く生きることができる。それが奇跡を起こすこともある。それには人々が共有できる、より良き『大いなる幻影』"La Grande Illusion"こそ必要なのだろう。