1.メル・ギブソンは、イエスと正面から向き直ろうとしていない!!、、、、、、イエスの偉大さとは、澄んだ目で、現状のユダヤ教が慣習、表面的戒律にあまりに囚われ、神への愛を見失っていることを喝破したこと、それを突き詰めたとき、現世的な富や権力は意味がないと悟ったこと、そしてそうならば、ただ一つの神はユダヤ民族のものである必要はないことを許容したこと、、、、だと私は思います。、、、、、、、恐らく、この映画は、イエスの苦しみの深さ、強さ、激しさを知ることによって、私たち一人一人の罪の深さを自覚し、その罪がどんなに深くとも、イエスの苦しみの激しさを通して、私たちの深い罪も許されるのだと知れ、ということなのでしょうか。(そうだとしても、人間は想像力により強い支配を受けるのだから、直接の残虐シーンより虐待を想像させた方がもっと効果的ではないだろうか)、、、、、、では、イエスの慣習や戒律との戦いは何であったのか、イエスは受苦のためだけに世に送られたのか、、、、、、。この映画では、作製者はこの自分の罪とその赦しという自分の問題ばかりに心を奪われている。そのため、イエスは、この自分が赦されるための道具となり果てている。そして、イエスが、何を語り、何を伝えたかったのかという部分が完全に欠落してしまっている。、、、、だいたいイエスが我々の身代わりであるというのはパウロによる解釈ではないか。、、、、、、自分の赦し(自己満足)のための道具にイエスを貶めたメル・ギブソン、自分の男性的・自己刃傷嗜好(マゾヒズム)をイエスの威を借り普遍化しようとするメル・ギブソンに災いあれ!!、、、、、、とかね。