2.一体大島監督はこの事件の「何」を描きたかったのか。
濃厚な性描写はいい、それなくしてこの事件は語れないだろうから。しかし、定がああまで吉蔵の肉体に執着した心理などがまったく描かれていないのはどういうわけか。
例えば、定の生育歴や初体験、その後の境遇などから、女としての定の不幸を描く必要はなかったか。この犯行の背景として、私には必須とも思えるのだが。
また、実際ふたりは、一時別れており、それが定の吉蔵への執着を深めているが、その間の身悶えするような本妻への強烈な嫉妬などはほとんど描かれていない。おざなりに台詞で言わせているだけだ。
この事件の強烈な印象は、あくまでも「殺害」ではなく「局部切断」だが、この行為に至る定の心情にも一切触れていない。
実際の犯罪の奇矯さばかりに目を向けた監督の軽薄さが透けて見えるようだ。
あるいは、監督がこの事件を通して男女の究極のエロスを描きたかったのだとしたら、あまりにお粗末と言うほかない。
映画の中で徹底して繋がっている様は、あれは性愛と言うより交尾だ。
これでは「世間から変態のように云はれるのが口惜しう御座います」と供述していた定があまりに憐れだ。
思うに定とは、ある意味ある種の男性にとっての理想だと思う。
時に童女のようで、稀代の妖婦であり、儚く強く美しい。
この事件は、もっと美しくも、もっと猥褻にも、もっと哀しくも描けたはずなのに、とまったく残念に思う。
ただ、本作の公開によりその後法廷で争われることになる、わいせつ論争などは非常に有意であり、その功績にのみ3点献上したい。