2.この映画を観る前の日中は、愛娘の幼稚園の行事に参加してきた。梅雨の合間の炎天下、我が娘も含めて、数百人の子どもたちがわらわらと駆け回っていた。
そんな日の夜に観たからこそだったのかもしれないけれど、僕はこのSF映画が伝えるメッセージを素直に受け止めることが出来た。
それは、映画ファンとして、子を持つ父親として、とても幸福なことだったと思う。
映画の冒頭、少年時代の主人公が、自作したジェットパックで未来都市を飛び回る。
このシーンをはじめとする「未来」を目の当たりした問答無用の高揚感こそが、この映画の総てだと言っていい。
映し出された未来像に対して“ワクワク”するというあまりに普遍的なSF映画の本来あるべき姿がそこにはあり、同時にそれを素直に肯定することが出来ない現代社会の病理も表しているように思えた。
無邪気だろうが、浅はかだろうが、「明日」を夢見なければ「未来」はない。
未来に希望を持てないなんて悲しすぎるし、希望を持てないことを誰かのせいにして、ある意味開き直って、あたかも絶望を抱える方が当たり前だと言わんばかりに、世界の退廃を受け入れるなんてまっぴらだ。
この映画が導き出したテーマを、「選民意識」の表れだと批判する人が多いらしい。なんて見当違いで、愚かなんだと思わずにはいられない。
確かに、この映画のラストでは、より良い未来を担うべき者の選抜が描かれてはいる。
そこに、未来という次のステージに今この瞬間の全員を連れていけるわけではないというある種の非情さが表れていることは確かだとは思う。
ただしそれは、才能に秀でた者が、才能に秀でた者を選民しているわけでは決してない。
「未来」という夢と希望を担うべき人材を、「才能」ではなく、それを諦めない「意志」で選ぶことを理想として導き出したこの映画を、僕は決して戯れ言だとは思いたくない。
それを「選民意識」なんて捉え方をすることこそが、未来に対しての逃げ口上だと思えてならない。
もちろん、困難や問題は尽きない。特別な才能があろうが、なかろうが、絶望することは容易だろう。
しかし、自らとそれに追随する若い命のために、「明日」という世界を作り続けなければならない。
そのために必要な物が夢や希望だと言うのならば、何がなんでも、僕はそれを追い求めたい。