2.いずれのショットも画面にパースをつけ、厳格すぎるくらい厳格に構図を決めている。
その画面領域の中で動植物・人間・メカニックそれぞれがせめぎ合う様が
スペクタキュラーだ。
その奥行きを強調したカメラ移動は、その産業の構造的スケール感を否応なしに
感じさせる。(延々と続く厩舎、延々と下るエレベーター等など)
そしてここには「機械的で規則的な運動のリズム」(長谷正人
『映像という神秘と快楽』)がある。
映画に登場するベルトコンベアー作業の数々は一見、単調で「無機質」でありながら、
それは無意識に規則正しく心拍運動し生命を維持する人間とも通じ合う。
ゆえに、そこには心情に拘らず、
リズミカルな反復運動に同調する「映画的快楽」が逆説的に伴う。
その規則の中に不意に現れる小さな不規則の面白さがまた引き立つ。
音楽を一切廃すること、言語解説による意味付けを一切廃すること。
それによって観客は反復のリズムを体感し、動植物の肉声・質感を感受し、
意味から開放される。
動植物への同情や憐憫や感謝。それらの単純な感情を喚起する自由を保障しつつ、
作り手はまず、様々な運動と色彩と音にあふれた画面そのもの、つまりは
本源的な映画の面白さを受け取ることを
求めているに相違ない。
断片的なショットに、奥行を意識した構図。機械と動物と、食事する人物。
まさに映画の定義に適った、リュミエール的な映画じゃないか。