2.黒沢清『トウキョウソナタ』を観たときに黒沢清の過去の諸作品を想起したのと同じくこの『東京暮色』を想起した。どちらも家族が崩壊してゆく映画ではなく、最初から崩壊しているということを見せてゆく映画。そして父が家族の中で威厳ある存在でいるという幻想の崩壊が描かれている。日本映画は、いや、アメリカを例外とする世界の映画は「母」をこそ映画の題材にしてきたのに対し、小津はアメリカ映画の影響なのか、はたまた自らの思惑があってのことなのかは知らないが、「父」を描いてきた。小津の描く「父」は何もしなくても、何も言わなくても、「父」として、家族の長として存在することを家族が認めていた。しかし『東京暮色』の父は何もしないのではなく何もできない存在として描かれる。そして母の不在こそが家族を分断させる決定打となっている。小津が描く「父」はいつもどこか寂しげな一面を見せてきたが、ここではその寂しさも泣きっ面に蜂状態。娘(原節子)も母(山田五十鈴)もそれぞれの事情を抱えてそれぞれの道を歩む。杉村春子は相変わらずのマイペース。父はひたすら何も出来ない。理想の家族形態が存在する古き良き時代の終焉を描いた映画といえるんじゃないだろうか。悲劇を悲劇として描かず、あくまで日常として描く。痛切で怖い映画だ。