2.カサヴェテスの「はしゃいでしまうこと」のうつろさというモチーフは、アメリカ版『甘い生活』とでもいうべき本作で、最も徹底している。破綻しかけている夫婦が笑い転げたあとの索漠とした静けさ、その静けさはすでに無理に笑い転げている騒々しさのときから画面の中で成長していたもので、じっと記録し続けるカメラの手法が最大限に生かされている。笑ったあとが怖くて笑いやむことが出来ない、そこでさらに笑い声を高めていく、笑ったあとの静けさとの落差の広がりが意識され、はしゃぎはひたすら加速度を高めていく。くたくたに疲れきりながら、何がおかしいのか分からなくなっても、はしゃぎを演じ続けていく。主人公が「もうふざけるのはやめてくれ」と哀願しても、ジーナが「これが普段なのよ」と答える場面もある。たしかにそうなのだ。付けまつげが素顔になってしまっている生活。外のハレの場所に出て行くのではない。祭りは部屋の中で起きてしまっているのだ。カサヴェテス作品を、シナリオ起こして別の監督に撮らせても、ちっとも映画にならないだろう(『グロリア』はリメイクされたがあれは特殊)。設定を囲った中に俳優を配置して動かし、その生き生きしたところを掬い取っていくような監督術の映画だから、そこがないとただ落ち込むだけの話。そのかわりカサヴェテスの手にかかると、本作の後半のように感動としか呼べない緊張した時間が味わえるわけだ。