153.人間としての“何か”が明らかに欠損している情緒不安定な男と女が、出会い、滅茶苦茶に共に生き、そして共に死んでいく物語。 二人の主人公に対して、微塵も共感できない映画だった。「面白い」と感じられたかどうかも微妙だ。 でも、何だろうこの観終えた途端に生じた「興味」が尽きない感覚は……。
“ボニー&クライド”という強盗カップルの名称自体は知っていたが、この有名な映画が彼らが主人公の映画であるということを観る直前になって初めて知った。
原題(「BONNIE AND CLYDE」)知っていれば、そんなことは明らかだったろうが、「俺たちに明日はない」という邦題からは、西部劇の印象に近い古風なアクション映画のイメージを勝手に持ってしまっていて、そのことが長らく今作を敬遠してきた大きな理由だった。
だが、ある評論を読んでその認識があまりに大きな間違いだということを知った。
そして初鑑賞に至り、この作品が、現在の映画という娯楽を構築する紛れもない主軸である「暴力」というエンターテイメント性の“礎”となった映画であるということを思い知った。
もちろん、現代人である自分にとっては、この作品で映し出される“暴力性”に斬新さや革新的なものを直接感じることはなかった。
しかし、この映画が持つ“意気込み”みたいなものの異様さは、ひしひしと感じた。
フェイ・ダナウェイの淫靡な唇の大写しから始まり、踊り狂っているかのように無数の銃弾を受け続ける主人公らのラストシーンまで、映画の全編に渡り、公開当時に今作を目の当たりにした人々のあらゆる「動揺」が時空を超えて間接的に伝わってくるようだった。
貧困、抑圧、戦争、格差……あらゆる鬱積を抱えた1967年という時代において、この映画が与えた影響力はいかなるものだったのか。その本質は、その時代に生き、本当の意味で“観たことがない映画”としてこの映画を観た人々にしか分かるまい。
そういうことを味わうことが出来ないのは、非常に悔しい。
ただし、現在もまた幾重にも折り重なった鬱積を世界中が抱えている時代である。
現在における「俺たちに明日がない」が新たに生まれ出ることを渇望せずにはいられない。