2.「いやあ、ちょっと、ぐうの音も出ない。」
と、鑑賞直後に呟いてから一週間が経とうとしているが、その後も紡ぐべき言葉が中々出てこなかった。
“ブラック・ウィドウ”と“カイロ・レン”の「リアル」なバトルを目の当たりにして、只々身につまされ、ひたすらに打ちのめされた感覚のまま、数日間、思考が止まっている。
もう軽く受け流して、目を背けたい気持ちでいっぱいだけれど、なんとか“鑑みてみよう”と思う。
主人公夫婦と、僕たち夫婦の境遇はとても良く似ている。
結婚して10年、共に働き、長子は8歳。(そして、妻はダンスが上手く、腕っぷしが強い。)
どうにかこうにか今のところ「離婚」というプロセスは辿ってはいないけれど、喧嘩はしょっちゅうするし、甲斐性のない僕に対する妻の不満の蓄積は認めざるを得ない。
勿論、僕は妻を愛しているし、たぶん…、おそらく…、願わくば…、彼女もそうであることは変わりないと思うけれど、だからと言って、最初の「約束」通りに、連れ添い続けることが「絶対」ではない。
ある意味ひどく“曖昧”で、とても“脆い”関係性が「夫婦」というものだろう。
この映画の「夫婦」にしたって、最後の最後まで、互いに思い合い、愛していることは明らかだ。
それでも、ささいなすれ違いは極限まで広がり続け、「離婚」という選択を避けられなくなっている。
滑稽で、愚かしくもあるけれど、それはあまりにも普遍的な悲哀だろう。
世界中の何千、何万、何億という夫婦が、まったく同じようなプロセスを日々歩んでいる。
描き出される“ストーリー”が、現実世界でありふれているからこそ、「夫婦」というものの当事者である僕たちは、胸が痛くて痛くてたまらなくなる。
そして、「夫婦」として連れ添い続ける以上、その不安や恐れは、ずうっと無くなったりせず、この道の真ん中に常に在り続けるのだ。
そのことを考えると、まあ面倒であり、心細くもあるけれど、同時にエキサイティングでもあるし、そういった諸々の感情を含めて、豊かで芳醇な人生というものなのだろうとも思える。
兎にも角にも本作は、「アベンジャーズ」や「スター・ウォーズ」とは全く別のベクトルではあるが、同等、いやそれ以上に圧倒的な“バトル映画”であった。
スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーによる、“怒り”と“悲しみ”と“愛”に満ちた感情の応酬の様は、白眉の名シーンであり、同じように“夫婦喧嘩”で感情をむき出しにしてしまった経験が少しでもある人であれば、グッサリと大きな棘が胸に突き刺さることであろう。
果たして、どこまで続いているのか分からないけれど、僕は僕で、このストーリーが紡ぐ道をこれからも歩んでみようと思う。