8.『グラン・トリノ』を見た時の感動、というのは、これがきっと最後の監督・主演作になるだろう、という予感ゆえに感動したのか、それとも感動したがゆえにそのような予感がしたのか。今となっては渾然となってよくわからないのですが、はっきりしているのは、その予感は外れて、間遠になったとは言えその後も、現時点で2本、監督・主演の兼業をこなしている、ということで。なんという映画への情熱とバイタリティ。老人、おそるべし。
この主人公は、煮ても焼いても食えない奴だ、と思ったら、自分で主演やるんですかねえ。頑固者のイメージ。それが、自らの老いた姿とともに、映画の中に焼き付けられています。今回の主人公も、推定年齢200歳くらい(?)のジジイ。カウボーイの生き残り。かつて南北戦争でも戦ったことがある、と言われても驚かないような、そんな人。
この物語の主人公がこれほど年老いている必然性があるのか、と言われるとよくわからないけれど、とにかく、イーストウッドは「今の自分」をさらけだし、「今の自分」を主人公に重ね合わせる。御年、90歳。乗ってたクルマが不調で、車体の下をのぞき込む、そんな仕草だけでも、ゴクロウサマと言いたくなる、そんな光景となっています。
しかししかし、映画たるもの、カメラがあれば、肉体の衰えなど乗り越えた動きのあるシーンも作り出すことができる。ニワトリを追いかけるシーンの張り切りぶりなどは、映画に動きを与えるとともに、どことなくユーモラス。
少年と旅をするロードムービー、のようでいて、実はそんなに旅をしていないような気もするのですが、イーストウッドはとにかく、若い人に何かを伝えたがっている、という雰囲気が伝わってきます。何を伝えたがっているのかというと、このマッチョ教の教祖のような人が、今さらになってではありますが、マッチョだけじゃいかんのよ、と。
というか、チキン(臆病)もマッチョも、紙一重。大事なのは、勇気を持つこと。
などと言ってしまうと安っぽくなるけれど、だからこそ、言うのではなく、それを映画で表現してみせる。体現してみせる。
イーストウッドは例によってカウボーイハットを目深にかぶり、陰になった目元がよく見えないのだけど、帽子を脱いでその目元が露わになると、妙に可愛らしい瞳がそこにあって。
ジイサン、すっかり丸くなった・・・のかねえ。