46.第二次世界大戦末期。「戦争」の只中で、人間の善悪の境界を渡り歩く一人の女。
絶望と、虚無と、断末魔を幾重にも折り重ねて辿り着いた彼岸で、彼女は何を思ったのか。
「苦しみに終わりはないの?」
終盤、主人公はそう言い放ち、それまでの人生で最大の絶望に覆い尽くされ、慟哭する。
その後に展開される更なる絶望と残酷のつるべうちが凄まじい。
裏切り、恥辱、怨み、復讐、そして新たな争乱……。
それは、主人公の“クエッション”に対する、監督の取り繕いのない“アンサー”だったように思う。
そう、「苦しみに終わりはない」のだ。
あまりに取り繕いもなければ、救いもない潔いその返答に対して、主人公も、観客も、逆に絶望すら感じていられなくなる。
突き付けられた「人間」と、この「世界」の本質を目の当たりにして、どうしようもなく愚かに感じると同時に、それでも「生きる」ことしか我々に許された術はないということを解し、清々しさすら感じてしまう。
そういうことを、この映画の主人公は、実ははじめから直感的に理解していたからこそ、悲しみと恥辱に塗れながらも、「生きる」というただ一点に集中し、その中で喜びや愛さえも育んでいけたのだと思う。
いやあ、なんて「面白い」映画なのだろう。
現実を礎にした悲惨極まる重厚な物語を、ただ重苦しく描くのではなく、映画という娯楽の真髄を刻みつけている。
時に残酷に、時にエキサイティングに、時に情感的に、時にユーモラスに、圧倒的に「面白い!」映画世界に圧倒される。
ハリウッドから本国オランダに帰り、「本領」を見せつけたポール・ヴァーホーヴェン監督の気概が本当に素晴らしい。
そしてその偏執的な変態監督の演出に応えた俳優たちもみな素晴らしい。
主要キャラクターから端役に至るまで、キャラクターの一人ひとりの存在感が際立っていて、それぞれが“良い表情”を見せる。
その中でも、主演女優カリス・ファン・ハウテンの文字通りに体と心を張った演技は、言葉では言い尽くせない。
家族の血を浴び、反吐を吐き、陰毛を染め、糞尿を浴び、それでも誰よりも美しく、高らかに歌い上げる。
この世界で「生きる」ということはこういうことだという、「真理」を語る映画史上に残る女性像を体現している。
そんな主人公エリスの存在感は、日本のアニメーション映画「この世界の片隅に」の主人公“すず”と重なる。
この二人は、まさに“同じ時代”を生きている。劇中の描写から察するにほぼ同じ年頃ではないだろうか。
残酷な時代と運命に翻弄されつつも、どこか飄々として、芯の強い女性像の類似。
その興味深い類似性は、過酷な時代を一人の女性が「生きる」ということを物語る上で欠かせないファクターの表れなのだろう。
動乱のさなか、時流の変化によって“変色”するかの如く、人間の表裏の表情には善と悪の両色が無様に入り混じる。
誰もが善人にもなれば、悪人にもなれる。
「戦争」は、勿論愚の骨頂であり、“悪”以外の何ものではない。
しかし、いくら綺麗事を並べ立てても、それを繰り返し続ける「人間」自体の本質的な“おぞましさ”から目を背けてはならぬ。
ポール・ヴァーホーヴェンがこの映画に描きつけたものは、まさしくそのすべての人間が背けたくなる「視点」そのものなのだと思った。