1.「パンデミック」というものが現実に巻き起こっている今、パニックに直面した人間、社会、国、世界の「本質」が如実に表れているように思える。
「危機」に対峙したとき、そのものの“真価”が問われるとは言うが、いざ不安や恐怖に惑い混乱する人や体制の脆さや愚かさを目の当たりにして、虚無感を覚えることは否めない。
それは無論、自分自身に対する「疑心」も含めてのことだ。
もし、突如としてパニックの中心に放り込まれてしまったならば、僕はどれだけ理性や人間性を保っていられるのか。正直言って甚だ疑問であり、そのことが最も恐怖なことかもしれない。
この韓国版“パンデミック映画”は、そういう人間の愚かさとそれに直結する恐ろしさを、盛りだくさんのパニック描写の中で描きぬいている。
決して綺麗事では済まされない人間の「性質」を遠慮なしに描きつけている部分が、非常に韓国映画らしく、ドスンと重い。
文字通り“盛々”に、古今東西あらゆるパンデミック映画やパニック映画の要素を詰め込んだ映画世界は、よく言えば豪快だし、悪く言えば節操がない。
過去作の様々なシーンと類似する部分は多々あるし、詰め込みすぎて冗長になっていることも否定はしない。
詰め込み過ぎてややまとまりに欠けるストーリー展開は、劇中のパニック描写と相まってグワングワンと混乱しているけれど、個人的には、パニック映画としてここまで振り切って観せてくれたなら文句はない。
実際、本作で描かれているような致死率100%のウイルス=恐怖が、このスピード感で襲いかかってきたならば、パニックの積算はこの比ではないだろう。
現実世界には、問答無用に善人すぎる主人公は存在しないし、大国に対して毅然とリーダーシップを取れる政治家も存在しない。そして、唯一の抗体が少女の体に生ずるなどという奇跡もあり得まい。
であるならば、ありとあらゆるパニックの描写をこれでもかと詰め込み、たとえご都合主義的であろうとも、それらがエモーショナルに解決する顛末は、娯楽映画として圧倒的に正しい。
そして、“類似品”であろうが、“パクリ”であろうが、過去の成功作の娯楽性を踏襲し、しっかりと自国のエンターテイメント映画として成立させてみせているのは、やはり韓国映画の実力故であり、その土壌の豊かさを痛感する。
それは同じように“類似品”であった2009年の日本映画「感染列島」の劣悪さと比較すると明らかだ。
2020年4月4日現在、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの混乱はまだまだ予断を許さない。
ヒーロー不在、リーダー不在、救世主不在の現実世界は、どのような顛末を迎えるのか。
映画ではない現実に対して、“鑑賞者”ではいられない。