1.《ネタバレ》 「寄生」とゆーのは、つまり「一緒に生きているケド、片方だけがソコから利益を得て、もう片方は害を被る」という生物同士の関係性のコトである。似た様な形態として「片利共生」とゆーのがあって、コレは「一緒に生きているケド、片方はソコで利益を得るも、もう片方には利も害も無い」というヤツである。昨今、そーいった寄生(或いは共生)生物とゆーのが、その宿主の行動様式(=つまり、もし宿主側に思考と呼べるモノが在るとするならその思考そのもの)を自分の利益の為に操作している…とゆーのは、比較的広く知られる様になってきた事実なのではなかろーか。しかし、そーいった寄生とゆーのはまた、宿主となる生物種に依っては決して物珍しい現象というワケではなく、寧ろその種の個体の大半がその手の寄生生物に冒されており、だからソレがもたらす(操作された)行動様式とゆーのがそのまま宿主の種としての特性となっている…というコトすら在り得るとゆーのは、こちらはあまり知られていない事実かも知れない。そしてそーなってくると最早、その類いの「共生」とゆーのが果たして「片利」なのか「片利片害=寄生」なのか、或いはも~「相利」と言うべきモノなのかとゆーのは、一概には容易に判断できないのだ、と(=例えその行動が寄生生物自身の利益の為に操作・誘導されたモノであっても、その特性を特性として宿主がイチ生物種として成立して存在している以上、そのコト自体を否定するのは難しい or 「意味が無い」から)。
誠に勝手ながら、ごくマジメで実際的で(ナンなら)少なからず社会的な方のテーマを擁する人間ドラマだろーな…と思い込んでいたのです。が、観てみると今作ってフツーにSFの類い、しかもSF恋愛映画…という方のヤツだったのですよね。つまり、人間を種々の「社会不適合者(※劇中の表現そのまま)」に変えてしまう一方で、同じ虫を体内に抱える者同士を強力な恋愛感情で結びつける…という寄生虫が存在する、と。かつ、その状況設定を通して今作が観客に問うてくるのは「自分以外のモノに植え付けられた(恋愛)感情は、ズバリ是か非か」というテーマなのですよ。前段で長々と語らせて頂いた様にコレ、寄生生物というモノの現実の在り方との関連を含めて、まずは実にごく興味深い・面白いテーマだな…と思ったのが(個人的には)正直なトコロなのですよね。
ただ、結論から先に言うとコレも、個人的には今作には結局あまり嵌れなかった・共感に至れなかった…とゆーのがまた正直なトコロなのですね。とにかくまず根本的に、人間が自分のその思考・感情を何者にも干渉されずに自分だけのモノに保つ、とゆーのは、個人的にはワリと絶対的な価値観として在るコトなのです。もう一点、私が特に『惑星ソラリス』とか大好きだから…というワケでもねーのですが、例えSF的で「特殊」な状況設定を用いたとしても、その中に描くべきヒトのヒトたる人間性とゆーの自体はしっかり「リアル」なソレであるべきだ、とも思っているのですよね。今作って「架空」の状況設定の中に描かれるのも「つくりもの」の感情…という、その点でシンプルに「真なるモノ」が見当たらない作品だ…とも思われて、そーするとどーしたって(私としては)ラストのあの二人に共感してゆくのが非常に難しかった…としか言い様が無くて、ですね。
もう一点、ちょっと理屈っぽい話になりますケド、この寄生虫が宿主を(重度の潔癖症とかの)「社会不適合者」に変えるのは、ソレによって寄生されていない一般人との関係性の構築を著しく困難にし、却って寄生されている個体同士を結びつけるのを容易にする為…だと思うのですね。しかし、その症状が今作の二人の様なごく重篤(ナンならごく「極端」)なレベルになって来ると、そもそも彼らがイチ社会人として生活・生存していくコトすら困難になり兼ねず、結果として宿主の環境への「適応」自体が下がってしまう様にも思われるのですよね(=そーなれば畢竟、寄生生物の適応だって下がるだろ、と)。そこら辺、少~しSFとして設定のつくり込みが雑かなあ…とも。更に言うなら、重ねてココまで「極端な」症状とゆーのが実際に在るにせよ無きにせよ、潔癖症も視線恐怖症もやはり実在する疾患なのは明らかであって、ソレを「寄生虫の所為なのです!」と言い切ってしまうのは(例え架空のSFの中だとしても)キョウビちょっと「危うい」かもな…と(少なくともやや安直かな…と)。もう一つの結論、また残念ながら今作はそーいうツッコミどころ(=詰めの甘さ)てのも単純に少なくない作品だったかな…と(=ソレってやっぱ特にSFとしては宜しいコトだとは言えないよな…と)。