12.《ネタバレ》 ストレートの一般人は、まず女どうしの同性愛を見せられると軽くショックを受けてそのことで頭が一杯になっちゃいますよね。もうそのことばっか考えて、映画の内容を冷静にジャッジできなくなります。レズビアンは映像作品にあんまりちゃんと出てこないから、見る機会が少ないため、慣れていないからです(なんであんまり出てこないかっていうと、それはこの作品の意図とも関係あるので後で言います)。
しかし、そんなことで目を眩まされてはいけないのだ。
主人公のジルが「男」だったと仮定してみてください。
なんのことはありません。元デカのアウトロー探偵が、捜査上の関係者とデキてしまったが相手に疑惑を持ち始め、結局そんなことだったんじゃん…というこのあらすじに、どーゆー新味があるでしょうか。ゼロ。
つまりこの話は、ジルが男性でさえあったならば最も使い古された私立探偵サスペンスの王道なわけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
なんだ、大した話じゃないじゃんか。そうです。
「詩」を小道具として使ったことで、もったいぶった話にしたつもりでいますが、考えてみてください。ミッキーが死んだ理由は、インテリ夫婦と3Pで変態プレイをしたらやりすぎちゃったから、という、文学や教養と程遠い理由ではないですか。「詩」とか関係ないよね全然。
この作品は、レズビアンでなければいけない理由はなにひとつなくて、「いつもあんたたちが見ている探偵サスペンスをレズにしてみたわよ、どう、新鮮でしょ」ということなんですよ。
そしてその理由は、これまでレズビアンを扱ったマトモな映像がほとんど作られてこなかったことへの「アンチ」なのです。なぜ作られてこなかったかというと、作り手はほとんど「ストレートかゲイの男」だったから+男性の観客に好まれない(除くポルノ)からです。もっと言えば、「レズビアンの男役(つまりタチ)」というものは、「ストレートの男の分け前(女性という資源)を奪う存在」として憎まれているからです。
サマンサ・ラングはこのことに対してアンチの声を響かせたかったのです。その意気は理解できるが、あまりにもストーリー自体がバカバカしいので、凝った編集や演出でもどうにもならないシロモノになったことだった。