39.《ネタバレ》 先の読めない始まり。いらいらする日常。意外な展開。感動的な予定調和で終わるのかと思わせておいてプチンと中途で終わる意外性。オダギリジョーの姿ではなく表参道を歩く高校生達で終わらせた黒沢監督は天才ではないかと観た時は思いました。他にもいろいろラストの絵は考えられたと思いますが、決して誉められた存在ではない筈の、脇役である高校生達を最後にもってきたことで、そこまで描いてきた3人の男達のドラマと映画のタイトルが観るものの心にずしっと何かを来させたのではないかと思うのです。何故なら誰でも高校生だった時はあるのだから。そう、あの頃、漠然と未来に対して抱いていたイメージは「明るい未来」ではなく「アカルイミライ」だったなあ、とデジャブ感みたいな感じで自分の中で納得してしまいました。この映画は希望の映画だと思います、ホント。「明るい未来」ではなくて「アカルイミライ」、のっぺりと記号化された抽象的な未来でしかないけれど、そこへ向かって歩いていく。うーん、この映画ほど、心には何かが届く、でもそれを言葉にはうまくできないという映画はあまり無いのではと思います。そういう意味では最も映画としては成功している映画、ということで満点です。 【Sean】さん [CS・衛星(邦画)] 10点(2007-07-23 17:22:39) (良:1票) |
38.《ネタバレ》 明るい未来ではなく「アカルイミライ」である。それは決して約束された未来、誰もがその輪郭をイメージできる立体感のある未来ではなく、戯画化されフラット化した「アカルイミライ」である。その「アカルイ」は本当に「明るい」のだろうか?ゲーム的なリアリティに意味を見出さざるを得ないような社会が真っ当に明るい未来なのだろうか?2極化した社会。その断絶は年々広がり、自らの価値観の中でしか現実が選択されず、オンリーワンであることに自足して閉じこもる一部の若者達。彼らの(そして僕らの)目の前の未来はとても暗澹としているように思える。 この映画の主人公、仁村はそんな一部の若者達を象徴する存在として描かれる。しかし、仁村に信頼される年長の有田守は、そういった現代的な等価交換的な考え方の染み付いた若者達とは一線を画する存在であるように思える。彼は、「待つこと」と「行くこと」の意味を理解している。有田守は自白によって殺人罪で逮捕されるが、実際の行為は描かれず、理由は明らかにされない。その場面では、殺されて横たわった夫婦と家を飛び出し歩いている少女のみが映し出され、有田守は何かを庇って罪を犯したか、又は罪そのものを被っているのではないかということが暗示される。(そう考えなければ彼の人物造形と行動が物語として矛盾する) そして彼は「待つこと」と「行くこと」の重要性をメッセージとして残しつつ沈黙と共に自死を選択する。 結局のところ、仁村は、有田守やその父親に導かれるように「生きる」ことそのものが、「待ち」そして「行く」ことであることを理解する。そうであれば、仁村は「許され」、癒されるべき存在であり、その未来を自ら進み、掴むことができるであろう。 同じようにゲバラTショーツを着た少年たちや両親を失った少女に明るい未来があるだろうか? この映画はそれを「アカルイミライ」と称し、決してその希望と可能性を失うべきではないと宣言しているように思える。有田守やその父親、そして仁村も、結局のところ、その少年少女達の「アカルイミライ」を保護し、承認する存在として描かれていると僕には思えた。 そして、僕はこの希望的「ミライ」を支持したいと思う。黒沢清のメッセージはこの作品から強く僕らに伝えられる。僕はゲーム的リアリティよりも、やはり人間的なリアリティを信じたい。それがどんなに狭く光微かな道であっても、である。 【onomichi】さん [インターネット(字幕)] 10点(2007-04-20 23:08:24) |
37.ありがとう。救われた。 あとエンドロールは鳥肌モン。 【魚】さん [DVD(邦画)] 9点(2007-04-20 03:22:01) |
36.《ネタバレ》 この作品で特異なのは、仁村があんな性格になってしまった背景や、有田が人を殺した動機が、最後まで明確にされないところだと思う。普通であれば崩壊した家庭だとか幼児虐待の過去とかをおざなりにでも付け足して、とりあえず説明をつけてしまうもの。しかしあえて一切説明しないことで(そもそも明確に説明できる類のものではないのだが)、作品の深みはいっそう増しているように思う。当然有田の父も仁村のことは一切わからないわけだけど、それでも仁村を抱きしめて「許す」と言う。その一言の大きさ、重さが印象に残った。 現代的でスタイリッシュな映像が心地良い。ちなみにオダギリジョーと浅野忠信の服装は映画の雰囲気を作るのには一役買っていたけれど、キャラクター的にはズレがあったような気がした。無気力で投げやりで、性欲も感じさせないようなさばさばした若者が、あんなにおしゃれでかっこよくいられるはずがないだろう。 タイトルが最後の最後に出るのもよかった。いちおうの着地点を見つけた仁村とは違って、あのぶらぶら歩く高校生たちの“明るい未来”がこれから始まる――というか、彼らはそれを見つけ出さなくてはならないんだなと思った。未来に向かう結末は、陰惨な作品にびっくりするほど爽快な後味を添えている。 むしろこの映画全体が、“アカルイミライ”のためのプロローグだったのかもしれない。 【no one】さん [DVD(邦画)] 8点(2007-01-13 22:19:52) |
35.この映画は、若い人のための青春映画というよりも、大人のための作品だと感じた。この作品に出てくる2つの大人像の対比がとても秀逸だからである。1つ目のタイプはおしぼり工場の社長。もう1つのタイプはもちろん有田の父親。前者は「真面目に働き、家庭も円満な成功者」ではあるが、致命的に「節度がない」。本人は「仲良くしたい」、「物分りのいい人」のつもりでやっていることが、その「節度のなさ」故に人に暑苦しさ、ウザさを与えるタイプの人間である。一方、後者は「仕事も微妙、家庭もバラバラ、自分に自信がない」存在として描かれる。彼の善性は、我を忘れて金庫を開けようと暴れる仁村にたいして説教した自分自身に対して、「言い過ぎちゃったよ。口が滑っちゃったよ」と言わしめたシーンに端的に現れている。彼のような態度こそ、自由を確保しながら品格を保って生きていくために人間が通らねばならない狭き道なのではないかと思う。オダギリジョーの怪演も見物です。 |
34.《ネタバレ》 この作品は日本映画史上最高の青春映画のひとつではないでしょうか。50歳を越えた監督がこれだけ自然に若者の感覚を描けるということにまず驚きました。序盤、おしぼり工場社長宅での食事シーンの気まずさや、社長がテレビのスポーツ中継を見て「ニッポン、チャチャチャ!」とひとり盛り上がる様子をドッチラケの表情で見ているふたり、などの描写がとても繊細で感心しました。ちょっとヴィンセント・ギャロの『バッファロー'66』を彷彿とさせるようなひりひりした感覚です。あの社長、徹底的に醜悪に描かれていて、そりゃ殺されるわな、という感じの描き方でしたね。それに対して藤竜也さんはものわかりの良い理想的な旧世代として描かれていて、私のような若い世代の人間から見ると「こんな理想的な人、いねえよ」という感じもなきにしもあらずでしたが、彼がオダギリジョーさんを「私は君を許す」と言って抱きしめる場面はとても感動的でした。猛毒のクラゲが川にあふれる場面はとても爽快でした。ラストもタイトル通り爽やかで後味が良かったと思います。作品全体的には、黒を強調した絵が見やすくて、テンポもよく、非常にポップな映画に仕上がっていました。 【藤堂直己】さん [DVD(邦画)] 9点(2006-08-28 12:52:30) |
33.タイトルに反して何の希望も感じさせない映画でした。本当、勘弁して欲しい。 【MARK25】さん [DVD(字幕)] 0点(2006-06-11 11:07:52) |
32.若者の将来に対する期待、不安からの苛立ち。年輩者の今俺は何をやっているんだ的な葛藤。その歯車がガッチリとハマった時奇跡が起こる。ああ、また明日から生きて行こうと思える快作。 【カイル・枕クラン】さん [ビデオ(字幕)] 6点(2006-01-30 22:27:51) |
31.これを観たらオダギリ・ジョーがネクラだと思えてくる。いや彼はネクラだろうな。たぶん 【tetsu78】さん [DVD(字幕)] 7点(2006-01-30 00:04:46) |
30.《ネタバレ》 「浮遊するポストモダン」この映画に解説をつけるのならば、さしずめこんなタイトルにするだろう。日本のポスト近代への移行が、共同体の解体に伴い、規範を壊し続けているとしたら、そこに生み出されるものは何であろう?その答えが、真水に生きるクラゲと、街を闊歩する少年達だ。フワフワと漂うクラゲ、そして、フワフワと生きる少年達は、一見してただ流されるだけの存在でしかない。社会から外れ確固とした意思を持つわけでもなく、気分だけで生きる彼ら。それが日本のミライだと言われれば、多くの人は戸惑うに違いない。海でしか生きられないはずのクラゲは、水槽という閉じた系から、あるとき外界へ流れ出す。それはこれまで淘汰さてきたはずの存在が社会に溢れだしたこの10年を模している。宮崎勤、宅間守、数多くの不可解な事件が世を騒がせた。オタク、トラウマ、家族崩壊、、、メディアは理由を探し社会は憎むべき者を探して彷徨った。「責任能力を有する」つまり「正常」な彼らがなぜ平然と「異常」な犯罪を犯したのか。そのパラドキシカルな問いに向かい合えない我々は、「不可解」の一言で片付けてきた。しかしクラゲの毒に理由があるだろうか?クラゲの心がわかるだろうか?それは、完璧なる断絶である。守のように社会の規範や価値観から離れたアウトロー(宮台真司は『脱社会的存在』と呼ぶ)は、我々の言葉では語ることができない。これは村上龍の示すような、楽観的アウトローの姿ではない。真水の東京で生きる力を獲得しても、クラゲ(=アウトロー)は危険で駆除されるべき存在でしかない。しかし未来を予言する仁村は確信を持って答える。「彼等はきっと帰ってくる」と。アウトローと共生することのできる唯一の存在である少年達の胸には、戦いの中で死んだゲバラがイコンとして刻まれている。彼らは「アカルイミライ」を支え歩き続ける。(それがエンディングで示されたようにフィクションだったとしても!)黒沢清の提示したミライ。それは日本のポストモダン像に他ならない。過去を生きる者達は傷つきながらも「許す」のだろうか。それとも、徹底的な駆除を試みるのだろうか。この映画のタイトル「アカルイミライ」は近代批判、または、ニヒリズムではない。我々はそれを受け入れるしかない。黒沢は淡々とそれを描いている。 【fero】さん [DVD(字幕)] 9点(2006-01-24 11:51:57) (良:1票) |
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29.若者の怠惰な生活、すぐキレる性格、そして凶悪な殺人、、。親に対する息子の態度の醜悪さ、対する親の威厳のなさ、集団でたむろしては目的もなく犯罪を重ねる高校生、、。そんな描写から描かれるのは普通、現代の教育問題だったり、家庭問題だったりがテーマとして与えられ、現代社会の病巣が描かれたりするものです。そうなると、この先日本はいったいどうなるんだという不安や諦めが作品を支配するか、もがき苦しむ若者たちの悲壮感であふれた作品になるしかないはずである。しかしこの作品はそのどうしようもないひとつひとつの描写から見えないはずのほんの僅かな光を見ようとし、幻かもしれないその「アカルイミライ」を確かに画面に残した傑作だ。題材に縛られない演出をこれまでずっと観せ続けた黒沢清が、今回もネガティブな題材をポジティブな演出で観せた。殺人という、とり返しのつかない罪を犯した若者は、もしかしたら友人を助けるためだったのかもしれないという微かな光。もちろん殺人を肯定するものじゃなく、全くの闇じゃないという可能性の提示でしかない。しかしその可能性も見ようとしなければ見えないもの。擬似家族がさらに光を模索する。今の若者の凶暴性や欲深さや無気力さの原因がどこにあるかは描かない。そうなってしまった彼等は、彼等なりに生きるしかない。ラストシーンの無理やりに引き出した「アカルイミライ」が眩しかった。 【R&A】さん [DVD(字幕)] 8点(2005-12-16 16:57:01) (良:1票) |
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27.《ネタバレ》 あり?黒沢作品は今まで「神田川淫乱戦争」しか観た事なくて、あれは確かに訳分からん映画だったけど、これはすごく分かり易くてポップな作品だったと僕は思ったんだけどな。端的に言えばこれは象徴的な意味での「父と子の関係性の回復」の物語なのだと思う(そういう意味では「ビッグ・フィッシュ」にも通じるものがある)。僕は若者ではなく、そろそろ中年の階段を上るお年頃(いや~ん)なので、浅野オダギリの感覚も笹野高史(殺されるオッサン)や藤竜也の若者に対する感覚も分かる気がする。僕も多分若い頃にああいう形で「どんなCD聴いてるの?」とさほど親しみを感じている訳でもないオッサンに言われたら、殺意は芽生えないものの多少イラついたと思うし、自分の息子に対して父親らしい態度が取れずに困惑する藤竜也も凄く「そうだよなー」と思った。何故かと言うと、僕と父親も似たような感じだから。いや、別に「一千万出せよ」とか言ったりはしないけどね。ウチの父の場合、僕が子供の頃は仕事の都合で殆ど顔を合わせなかったし、大学入ってからは一人暮らししてて連絡もあんまりしなかったんだよね(因みに母親は僕が中一の時他界)。んでまあ色々あって今一緒に暮らしてるんだけど、やっぱコミュニケーションたどたどしいもん。親父は僕がどんな音楽を聴いているとか、どんな映画を観てるとか知らないし、僕も親父の事を実はよく知らない。ぶっちゃけた話感謝も尊敬もしてるけど、それをどういう風に出したら良いか分かんないんだよね・・・っていつの間にか告白タイムになっちゃった。映画に話を戻すと、つまりオダギリと藤竜也は自殺した浅野を介して擬似的な父と息子の関係性を獲得したんだと思う。んー、まーつまりさ、ぶつかり合えば良いじゃんって事だよ。あの「許す」のシーンは泣けました。僕が監督だったらあれをラストシーンにすると思うんだけど、そうしなかったのは監督の「照れ」かな。そうそう、最後の高校生のシーン、あれは監督の若者に対する「挑発」なんだと僕は解釈しました。「お前らはどうするんだ?これからの“ミライ”」っていう、ね。浅野忠信も言ってたけど、僕はこれ観て爽やかな気持ちになりましたよ。あと、もうちょっと親父と話しとこうかな、とも。僕は今の所自殺する予定も死刑囚になる予定もないけど、親父もう七十過ぎだからさ。あ、THE BACKHORNの主題歌も最高。 【ぐるぐる】さん [DVD(字幕)] 9点(2005-05-04 16:51:01) (良:2票) |
26.《ネタバレ》 タイトルいいですね。”明るい未来”なら明るく健全な印象。アカルイミライだと・・ヒアリングしそこなった単語のような飲み込めないナニカを感じる。硬く冷たい印象を持つのは自分だけじゃないはずです。ま、それと同時に軽いポップな印象もありますけど。観賞後第一印象・・わからん。でもこの居心地の悪さとそれだけじゃないナニカ。わからんでくくりたくないナニカ。無軌道、気力がない、キレやすい・・そんな2人を見ていて、はじめは『こんなアホに感情移入できない』って思ってたのに、『こんな風にしたくないことから逃げ、キレたい時にキレたら・・・楽かも(いえ間違っても殺人はしたくないですよ)』と、ほんの少しうらやましくさえ思ったっけ。・・でも結局、健全な未来は示されず、自分がある程度常識にそって活きていることに安堵も覚えた。・・・んーやっぱり映画の核心に近付けてない・・じゃいっそ自分なりに楽しんじゃえ・・仁村はミライを夢に見ると言っていた。なら、おしぼり工場の休憩中の居眠りで、うなされて見ていた夢が本編だとしたら?・・起きた仁村はこのミライは受け入れず、新しい未来を作ろうと、夢からではなく覚醒していくかもしれない。そう、あてはないけどアカルイミライを築くために・・ラスト仁村がどこに行ったのかわからなくなったのは、もう夢の世界にはいないから。。ふぅ、これでいいや(笑)(それを暗示する演出なんていっさいないですけどね)でも、このくらいブッ飛んで考えないと有田、仁村のみならず、うまくまとめあげている世界観ではありますけどリアリティが欠け落ちてると思うんですよ。有田が”行け”のサインを残した後、仁村が生まれ変わったように快進撃するサクセスストーリーならうれしかったのに・・それじゃベタですね(笑) 【ウメキチ】さん 6点(2005-03-20 13:17:13) |
25.クラゲは綺麗でしたね。、、、特別で大切で、毒を持ち美しいクラゲ(=特別な自分)を水槽の中(=心の内)に閉じこめるのではなく、それを真水(=世間)に馴らして解放すると、それが増殖してゆく、といったようなイメージは素敵です。、、、、、だけど、表の具体的な話の進行が、バラバラのイメージと思いつきの羅列のようで、クラゲの進化と全然かみ合っていない印象でした。、、、、、結局、流動するこの世の中についての監督のイメージが、実は陳腐になっているということではないのかなぁ。 【王の七つの森】さん 5点(2005-02-13 00:21:53) |
24.社会からズレを感じている人には、面白さが分り易いと、思ってみたり。自身と社会に対してのズレの放置や、自分に合わせた逃場の確保、やんわりと襲う刹那的な衝動。こういう杞憂にも似た馬鹿馬鹿しいモノに、何時も怯え苦しんでいる私には、「アカルイミライ」に、何だかエールめいたモノを感じてみたりも、する。 無理矢理面白いと思う必要は、当然、無いし、安易に癒しを求めるべきでも、無いと思うけどね。観方は、千差万別だと、思う。 と言うわけでエンタテイメント性は、薄い。 ただ「許す」とか言われても、チョット鬱陶しいかも、しれない。心温かきは万能なり、ですけどね。 しかし、最近気になっているのは、オダギリジョーって、プロフィールに「仮面ライダークウガ主演」って、載らなくなったよね? 【aksweet】さん 7点(2005-01-16 00:09:15) |
【ないとれいん】さん 6点(2005-01-08 01:32:42) |
22.落ち着きのないカメラワーク、暗いトーンの映像。自然なようで自然じゃない、捉えようのない出演者やストーリー。監督の他作品が合わない人はこの作品もダメだろう。どの作品も内から滲み出る静かな狂気の表現は凄いんですけどねぇ。 【HIGEニズム】さん 4点(2004-12-22 18:13:31) |
21.わかんねーこと世の中たくさん在り過ぎ。でもクラゲ見てたらチョットはマシかな。 【ヒロヒロ】さん 4点(2004-10-17 16:52:48) |
20.クラゲ。浅野さん。ジョーさん。藤さん。全部好きな感じ。ぐわっじゃなくてするするって巻かれた。雑炊。雑炊大好き。 【おでんの卵】さん 7点(2004-09-02 05:12:02) |