16.《ネタバレ》 新興宗教をテーマにしたところは面白いが正直最後までモヤッと感が払拭できず。この感覚は「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」を観た時と同様で、この監督ならではの展開なのか。ただ今作は長かった。。。疲れていたせいもあるけど。 【kaaaz】さん [ブルーレイ(字幕)] 6点(2013-09-20 23:19:59) |
15.《ネタバレ》 理解者に依存してしまうのは、誰もがそうだ。彼のように多くの痛みを背負った者なら尚更で、藁にも縋る想いだったに違いない。畑を駆け抜け船に浮遊し、彷徨っていた心は、終盤で疑い、退けようとも、一度信じた神を簡単に捨てることができなかったのかも知らない。あのボコボコにしてしまうフレディの心は、痛みに満ちていた。神を捨て、自らを信じ、自分を受け入れた彼は、振り返ることなくバイクに股がり、蜃気楼の先へ消えていった。そして表層的な美しさや即物的な価値ではない自分の居場所を見つける。この作品の作りそのものが、全現代人に向けたあまりにも尊い祈りに満ちていた。素晴らしい。 【ボビー】さん [映画館(字幕)] 10点(2013-08-25 07:26:00) |
14.《ネタバレ》 フレディとランカスターの関係がよくわからない。同性愛でもないし、男同士の友情でもない。精神的主従関係なの?二人が最後に決別したのは、食物連鎖のような主従関係の連鎖をフレディが断ち切ったってこと?でもそんな事よくあるんじゃないでしょうか。役者の演技も独特で上手いし、撮り方もところどころ魅力的なシーンがあったけど(出だしの砂浜のシーン・百貨店のシーン・平原をフレディが走って逃げるシーン)、結局、この映画は、どうとでもとれる事を、ああでもない、こうでもないと観客に考えさせようとしているだけじゃないの?深遠にみせかけた思わせぶりってゆうやつだと思います! 【わんたん】さん [映画館(字幕)] 3点(2013-08-04 15:39:16) |
13.《ネタバレ》 素晴らしい演技やカメラワークによる心情の描写、とても素晴らしいと思います。 ただ、色々と考えすぎてしまい、役に対する感情移入ができず、ストーリーを楽しめませんでした。初心者には難しい芸術作品という感じでしょうか。 【winger】さん [映画館(字幕)] 5点(2013-07-12 12:17:56) |
12.《ネタバレ》 どこかの批評で「PTAは映画に愛されてる」「映画を撮るために生まれてきたような監督」という論を読みましたが、正にその通りだと思います。とにかく各シーンが強烈なインパクトを有していて上映後も何度も反芻してしまう。この辺りの感覚はキューブリックの映画に近いと個人的には思っていて、全体的にシンメトリックな画作りに拘っている点が両者に共通しているのも面白い。 本作では特に前半部の長回しが強烈で、フレディの働く写真屋(ブティック?)をコートを纏った女が歩き回る場面や、"マスター"ことトッドがフレディに催眠(あえてそう呼びます)をかけフレディが過去を吐露する場面は、計算され尽くされた画と役者の卓越した演技力に目を釘付けにされます。 前作の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と同様に役者の狂ったような暴れっぷりも本作の魅力の一つで、特にホアキン・フェニックスのリビドーが溢れ出した様な演技は圧倒されつつもついつい笑ってしまう名演だったと思います。 ストーリーは獣の様に生きていた男、フレディを新興宗教の教祖であるトッドが治療しようとするという話で、そのお話自体もフレディが最終的に宗教と決別する展開などは実に良いのですが、この映画のストーリーはある種現代社会の縮図として作られていると思います。何時も猿のようにセックスのことしか頭にないフレディは大衆(愚衆)の象徴で、それを自らの道に導こうとするトッドは所謂近代的国家の象徴。だから彼は説法で「人はこう生きるべきだ」と明確に人の価値観を定義する。そこにトッドの奥さんが絡んでくる。トッドの奥さんは鏡の前で彼のアレを処理する場面で分かる通り彼の手綱を握っている。トッドと奥さんは二人で一つの国家を象徴しており、自分の宗教に難癖をつけてくる男に「誰もがそれぞれの考え方を尊重すれば良い」と言うトッドは所謂ハト派、「難癖をつける奴は戦って叩きのめせば良い」と言う奥さんは所謂タカ派。だから奥さんが次第に大衆を象徴しているフレディを得体の知れない理解不能な存在として疎み追放しようとトッドに進言する点も合点がいく。 映画の最後でトッドはフレディに「君は誰にも支配されずに生きる初めての人間になる」と言い彼を送り出しますが、大衆を象徴するフレディの成長(アル中の時と顔つきが全く違う)を"支配から逃れ自由に生きること"としているのも素晴らしいと思います。 【民朗】さん [映画館(字幕)] 9点(2013-06-09 16:19:34) (良:1票) |
11.毛皮の女の長回し、まるで水が静かに流れているかの様な躍動。 そしてただただバイクが疾走するだけの躍動。 それらがスクリーンに投影されている。 それを観ているだけで思わず涙しそうになる。 もうそれだけで、この映画は充分に素晴らしいだろうと。 映画とはそういうものだと思うからだ。 なんだか久し振りにこんなにも映画を観ながら熱を帯びて痺れてしまったもので、何よりも最高の光をフィルムに定着させている。あの絶妙な薄暮の中を走る船であるとか、本当に見事なまでに豊かな映画であったと思う。 そして、何よりも、ホアキン・フェニックスがフィリップ・シーモア・ホフマンを睨むように見つめ微笑むあの顔の美しさったらない。彼の熱や精気が徐々に失われ、顔面の脂も抜けて、ただの骨と肉と魂の塊へと姿を変えていく美しさよ。そんな骨と肉と魂の塊が彷徨い、両の眼を涙でギラつかせ、口許を歪ませているだけのクローズアップ、そしてその陰影。 映画は、物語などを超えて、観るという体験として身体に刻み込まれるものだ。 【すぺるま】さん [映画館(字幕)] 9点(2013-04-22 01:16:46) (良:2票) |
10.《ネタバレ》 主役二人の演技に圧倒されました。ひとつひとつのシーンもそのまま切り取って写真にしてしまいたくなるほど美しいです。そしてジョニーグリーンウッドの、もはやギタリストの枠組みではとらえきれないような音楽も素晴らしいです。自分にとってはこの点によってだけでも傑作にしてしまいたいくらいです。 しかし、自分にはこの映画のテーマがいったい何かがつかみきれません。主役二人の演技には圧倒されましたが、彼らは少なくとも共感とは程遠い存在です。その一方で両者ともにどこか人間臭さを感じました。フレディは少女に対する純粋な恋心を持ち、マスターは自らの宗教の教義に関する妥協を選択するのです。 マスターとフレディはいったいどのような関係だったのでしょうか。少なくとも、シンプルな師弟関係ではありません。それを示すようなラストの二人の会話。劇中では誰よりもお互いを理解し合っているようでしたが、一方で最大の敵同士にも成り得たのです。マスターのもとを離れ、最終的にどのコミュニティにも属していないフレディに今後平穏は訪れるのでしょうか。 新興宗教ものの映画と思って見に行くと肩透かしを食らうかも知れません。おそらく人とのかかわりあいや集団に属することについての、何かより普遍的なテーマを感じました。なんだか村上春樹の小説を読み終えたような気持ちになりました。 正直、一回見ただけではよくわからなかったので、時間をおいて再度鑑賞したいです。 【やっぴーK】さん [映画館(字幕)] 9点(2013-04-16 23:26:46) |
9.主人公が何を求め、何によって救われたのか、よくわからないまま映画が終わってしまいました。この監督の作品は、雰囲気が独特で、惹きつけられるものがあるのですが、この映画では、物語の魅力が感じられませんでした。 【shoukan】さん [映画館(字幕)] 4点(2013-04-13 00:02:20) |
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8.この作品はどこに向かいたいのか、何が言いたいのか。フレディには何があって、どう変わったのか。ランカスターは、教団はどこへ向かいたいのか。与えられる情報があまりに少なすぎる割りに、モチーフだけが次々と投入され消化不良を起こす。自分には理解しようという気力の湧くことのない作品でした。マグノリア、ゼア・ウィル・ビー・ブラッドという傑作を経て、この監督はますます自分のやりたい放題作品を作るようになっている気がする。でも、そこに観客は存在しているのだろうか? 良く言えば「多様な解釈のできるとんでもない映画」。悪く言えば「監督のエゴ丸出しの自主映画レベルの映画」。主人公がどんな熱演を振るおうが、私に届くものはありませんでした。 【j-hitch】さん [映画館(字幕)] 3点(2013-04-12 00:23:22) |
7.またPTAはとてつもない映画をつくってしまった。そのことはよくわかる。正直いまは頭の整理がつかない。 とりあえず9点にさせてくれ。 【ideko】さん [映画館(字幕)] 9点(2013-04-03 18:08:23) |
6.《ネタバレ》 映画を見てその世界観に夢中になるのって、カルト宗教に入り込むのと似ているような気がします。「カルト映画」と呼ばれる作品も沢山ありますしね。 イベントや講演などで、映画監督の話を聞いたり直接話したりした時に、ある種の映画監督には良く言えばカリスマ性、悪く言えば詐欺師のような雰囲気が漂っていたのが印象に残っています。自分のマインドをヴィジュアルに落とし込むために沢山のスタッフを「その気」にさせなければいけないわけだから、自然とそうなるんでしょう。そういう監督にはごく一部に熱狂的な信者が沢山いるのも、カルト的ですね。特に学生のような、自力で築き上げた生活基盤を持っていないようなヤツはイチコロです。 おそらくこの映画の主人公も、地に足が着いていない、海の上でユラユラ漂っている状態でマスターと出会ったんでしょうね。外界から遮断され、ある程度の長い時間そこで過ごす軍艦やフェリーは、なんだか象徴的な舞台になっています。 後半からは主人公以外の信者も出てくるんですが、それらが「熱狂的な映画ファン」とそっくりそのままなのも、ちょっと面白かったです。 新参のファンを「にわか」と言ってみたり。心酔するあまり、「前の作品とちょっと違うんですけど・・・」と落胆したり。「作品よりも作家そのもののほうが面白いんだよね」なんて言うヤツが出てきた時は笑ってしまいました。 最初は「カルト宗教」なんて自分には馴染みが無いし、面白いのかなと思いながら観ましたが、んなことぁない!自分のすぐ目の前にある世界そのものじゃないか!と思えて面白かったです。 【ゆうろう】さん [映画館(字幕)] 8点(2013-03-31 23:06:43) |
5.映画を観るからにはある程度は理解したいから、これ以上はつけられないが、観ていて飽きない映画だったので、この点数。ホアキンもフィリップもイカれ演技が恐ろしい。マスターとフレディの奇妙な友情がテーマかと。コーズの教義を逸脱し、超越したフレディ。教義の修正に妥協したマスター。二人の立場の変化がラストの余韻を生む。 【枕流】さん [映画館(字幕)] 6点(2013-03-31 00:03:53) |
4.「ブギーナイツ」「マグノリア」が好きです。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」も理解できます。しかし、この「ザ・マスター」は難しい。誰でもマスターは必要だし、それを求める人間、そこに救いを求める人間の心理も理解できます。けれど、それを素直に描いたら映画としてのエンタテイメントは無いですね。いい映画だけど、楽しめない、感動もできない、そういう映画です。ホアキン・フェニックスはものスゴい! 【カワウソの聞耳】さん [映画館(字幕)] 7点(2013-03-28 21:56:03) (良:1票) |
3.《ネタバレ》 初めに述べておくと、これは傑作である。しかしどうにもつかみどころがなく、この映画を映画に即して観て考えることは非常に困難だ。様々な観点からのこの映画の批評を期待するところである。私は二つの表面的な点だけを指摘しておきたい。まずオープニングから、海。元はふかい青、緑のような色であった海に、船の立てた泡が白く混ざり、何ともいえぬ淡い青になっているオープニングから心をつかまれる。これはオープニングだけでなく、劇中で三度ほど出てきているので、恐らく重要なシーンであろう。船も何度か出てくる。そして被写界深度の浅さである。非常に浅い。特にフレディが最初にコーズの船に乗り込むシーンは、まず手前のフレディ、そしてフレディがぼやけて船、そしてまたフレディ、というように被写界深度の浅さが効果的に使われており、意図を感じる。後半はそれほど浅さを感じることはなかったのも一つのポイントだろうか。全体として、この映画はなんだかよくわからない。宗教団体コーズを描いているが、この映画から宗教的な香りはしない。では世俗的な人間ドラマなのだろうか。恐らくそれも違う。事態はもっと複雑で、恐らくこれは宗教的ならざる神秘性のようなものを描いているのではないだろうか。これは振り返ると「マグノリア」のテーマであったようにも思う。そしてこの映画におけるその神秘は、フィリップシーモアホフマンでも空から降ってくる大量のカエルでもなく、フレディ自身なのである。 【Balrog】さん [映画館(字幕)] 9点(2013-03-28 19:06:54) (良:1票) |
2.1950年代の狂ったアメリカが物凄く怖い。 緊張と解緊を繰り返す二人。胸苦しい不安で耳を塞ぎ目を堅く閉じたくなる。 それでも終わって席を立てないほど涙がとまらない。 【mimi】さん [映画館(字幕)] 9点(2013-03-28 16:26:40) |
1.《ネタバレ》 フィリップ・シーモア・ホフマン扮する新興宗教の教祖ランカスターは、ホアキン・フェニックス演じる主人公フレディを“息子”として自分のものにしたかった。フレディもまたランカスターに“父親”を見出した。…そう、『ブギーナイツ』や『マグノリア』、前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』などがそうだったように、ポール・トーマス・アンダーソン監督の作品はここでも「父と息子」、「(疑似)家族」をめぐる愛憎劇を繰り広げる。 だが、ある一点において本作は、これまでのPTA作品と根底的に異なる“貌”をみせるだろう。そう、この映画におけるフレディは、もはや誰の“息子”にもなれない男だった。ーーアル中で女に目がない、一見すると単なる負け犬の流れ者。しかし一方で彼は、どこまでも自由で束縛(=家庭)から逃走し続ける、常に「移動する者」でもあるのだ。 常にその肉体と魂を彷徨のなかに起き続ける、フレディ。何という空虚さと孤独。だが彼は、それでも生きていける。これまでも、これからも空虚で孤独でありながら「独り」で生きていける男なのだ。その意味で、すでに彼は師であり“父親”であるランカスターすらをも“超えた”存在なのである。 ランカスターはフレディに、「もし“師”なしで生きられる方法が見つかったら、ぜひまた会いに来て教えてほしい」という。そして「来世で出会ったなら、お前は私の最大の敵となるだろう」とも。ランカスターもまた、フレディが自分“息子”どころか自分すら超越した存在だということを覚っていた。それでも、というかそれだからこそ実はフレディを手放したくなかったホフマンが口ずさむ「中国行きのスロウボート」と、それに対するフェニックスのゆがんだ笑顔。その対比の、何という美しさだ・・・ フレディ、このこのアル中で情緒不安定で暴力的だが、どこか愛さずにはいられない“1950年代のハックルベリィ・フィン”。この真の意味で「自由」な人物像を造型し得ただけでも、この作品と主演のホアキン・フェニックスは映画史上のものだ。彷徨する魂と肉体にこそ己の存在理由を見出す「アメリカ(人)」の心象風景をここまで鮮やかに映像化した作品など、ほとんど空前絶後ではあるまいか。ともあれこれは、21世紀に入ってから今に至る最高の「アメリカ映画」だと、ぼくは確信している。 【やましんの巻】さん [映画館(字幕)] 10点(2013-03-25 11:35:50) (良:1票) |