6.《ネタバレ》 鑑賞を終えて、映画館施設内のATMで一万円を下ろした。
その一万円札をしげしげと見ながら、“彼女”の罪と罰について思いを巡らせた。
この映画の主人公が、犯した罪とは何か。そしてその代償として与えられた罰とはなんだったか。
巨額の「横領」という明確な罪が描かれていながら、果たして本当に彼女が犯した罪はそれだったのかと確信が持てなくなる。
言い換えれば、「横領」という罪に伴う「嘘」と「偽り」そのものが、彼女にとっての「罰」だったのではなかったか。
彼女の「罪」は、たった一枚の一万円札から始まる。ただしそれは、ただの目に見える“きっかけ”に過ぎない。
他人の一万円に手をつけてしまうずうっと前から、彼女は、この世界の“虚構”に対するジレンマを孕み続け、一線を越えてしまう必然性を秘めていた。
彼女にとっては、この世界にまかり通っている虚構を受け入れ、普通に生きていくこと自体が、「罰」だったのかもしれない。
その「罰」に相応しい「罪」を後追いしてしまったと捉えることは、確固たる犯罪者である彼女を庇護しすぎなのかもしれない。
けれど、欲望を追い求めるというよりも、むしろ盲目的に一線を越えていく彼女の姿には、表面的な快楽と悦楽に包まれた業苦が露わになっていた。
主人公は、越えてはならない“ボーダーライン”を次々に越えていく。時にその描写は少々唐突に見えるかもしれない。
けれど、実際、“一線を越えてしまう”という事象において、明確な意思なんて存在しないのだと思う。
唐突な流れの変化と、衝動、そしてただ残る結果。“一線を越える”というのはただそれだけのことだ。だからそこには明確な理由なんて実は無い。
「あなたはここまで」と、言い切られ、彼女はまたひとつ“一線を越える”。
まさか、この映画の結末が、こんな爽快感に包まれるなんて、ちょっと信じられなかった。
「罪」と「罰」を同時に経たからこそ、彼女に「贖罪」は必要なかったと僕は思う……いや、違うな。
やはり彼女にとっては、どこに居ようと、この世界で生き続けることこそが、贖罪なのかもしれない。