27.《ネタバレ》 「竹光」というものの存在を、7年前にこの映画を初めて観た時に初めて知った。
この映画における「竹光」の用いられ方は、あまりに哀しみと痛みを秘めており、暫く心に焼き付いて離れなかった。
いわゆる「勧善懲悪」の娯楽時代劇とはまさに対極に位置するこの作品は、武家社会の様式の厳しさと美しさ、そして根本的な無情さを鮮烈に描き出す。
その無情さは、ストーリーが深まるにつれ更に深化し、深い深い“愚かさ”として露になる。
そのほとんどが屋敷の庭先で展開されるストーリーは、極めて予測不可能。時代劇でありながら秀逸なサスペンスの雰囲気さえ感じずにはいられなかった。
何よりも、大胆かつ神妙な語り口で主人公を演じきる仲代達矢の振る舞い、眼光、発せられる声質まで総てが圧倒的だ。まさかこの当時30歳とはとてもじゃないが信じられない。彼に対峙する三國連太郎の独特の存在感も素晴らしかった。
初見時は、遷移する時代の“ひずみ”の中において起こった武家の非道な仕打ちに対して、主人公が自らの命を賭してその在り方を問う映画だと思えた。
もちろんそれも、この映画の中でメインで描かれている側面だとは思う。
しかし、数年ぶりに見返してみて、また違う側面も垣間見えた。
それは、この映画の物語の中で描かれるある種の無情さと滑稽さそれに伴う愚かさは、必ずしも非道な仕打ちをした武家に対してのみ描かれていることではないということだ。
むしろ"愚かさ”ということに関しては、主人公自身の悲しみの中にこそ描かれていたと思う。
誰よりも愛する家族に対して非道だったのは、“刀”を捨てきれなかった自分自身だったということに、主人公は気づき、己の愚かさに打ちひしがれたのち、「切腹」を覚悟し武家に赴いたのだろう。
仲代達矢演じる主人公が、三國連太郎演じる家老に放った激情ほとばしる一つ一つの言葉は、実のところ自分自身に向けたものだったように思えてならない。
移りゆく歴史の流れの中でひっそりと蠢いた一瞬の裏側を見事に切り取った大傑作だと思う。