52.《ネタバレ》 最初この映画を見た時に感じた嫌悪感は何だったのか。
餓鬼(中坊)だった俺はジグソウのクソ野郎に殺意を覚えたこと、
低予算とか触れ回る割には編集技術の高さとか演出に「低予算」という説得力を感じられなかったこと、
BGMがうるさすぎて俺の中でしばらくギャグ映画という位置ずけになってしまった事。
というか、映画は本来低予算が当たり前だ。
ハリウッドも低予算だからこそディティールとかシナリオ、演出、俳優で勝負していた。
それがいつの間にか金を無駄にかけ時間も無駄に長くなり、低予算のB級的感覚を持った映画を白眼視する馬鹿が増えて“珍しく”なっただけに過ぎない。
クリント・イーストウッドとかスピルバーグとか、今でも想像より遥かに安く早く面白く作っている。それが当たり前の事だったからだ。
だから、ワンによるこの映画もその辺のA級を自認する退屈な文芸映画よりも遥かに面白い。
それは再見してその面白さに気付く事が出来た俺が保障しよう。
この映画を見直そうと思ったのも「死霊館」の面白さに感動したからだし(「死霊館」の方が俺は好き)、短編の「ソウ」に心を打たれたからだ。
ただ、短編の得体の知れないクソ野郎に振り回されるというのが最大の魅力だった筈なのに、この映画はクライマックスであっさり謎解きをしてしまう。
短編のエピソードは“影”だけで表現されていたのに対し、この映画ではガッチリ描写される。この場面だけでも短編より金かけているよね(面白いから別に良いんだけどさ)。
ほっぺがクルクルパーの人形とか、長編で思う存分殺りたい放題。白人も黒人も黄色人種も一人ずつ確実にブッ殺されていきます。
闇、水の中の男の顔、ハッキリしない暗い部屋、突然電気がついて明るくなり、この部屋が密室だという事が分かる。互いに素性をよく知らない、鎖に繋がれた二人の男、それぞれに与えられたヒントと“鍵”、中央に転がる“痛々しい”男、握りしめられた拳銃、画面の向こうでふんぞり返るクソ野郎の存在。
しばらく闇の中にいて突然明るくなるのだ。眩しさでしばらく眼を開けられない。
ポケットの中のヒント、レコーダー。
最初のうちは二人とも鍵を共有する精神的な“余裕”があった。試行錯誤を繰り返して先に進もうとするが、謎のメッセージに踊らされる二人。
トイレに手を突っ込むとか色々キツすぎる。画面の向こうのクソ野郎に弄ばれ、徐々に恐怖が苛立ちに変わっていく二人。そこに与えられる“鋸”。最初の15分は前に見た時より楽しめた。
そこに回想だけならともかくジグソーを追う外の人間やら凶悪犯との追走劇やら、別の映画で見たかったアクションばかり入ってくる。
それで外の人が頑張って犯人を…と思ったら実は!というのが狙いなのは解るけどさ…なんかねえ。
回想の処刑ショー、早回しで恐怖を強調するのはヒッチコックの「裏窓」を思い出す。
写真でゾッとする瞬間、ビデオのヒント、複数の赤い布、カメラのフラッシュで照らす、明かされる真実。二重三重の罠。
そしてああやっぱり音楽のせいでギャグ映画に。そもそもシリーズ化されている時点でギャグ映画確定じゃありませんか。
頑張れオッチャン!頑張れママ!父さんも脚をオープン・ゲットして今逝くぞー!顔面蒼白すぎて泣いた。
ジグソウ「地獄でまた会おうぜっ!」ガッシャーン
何でこんな奴に説教されなきゃならないのだろうか。まったく頭にくるほど面白い映画だ。
・ソウ(短編)
俺は長編よりも、長編の元になった短編の得体が知れない恐怖の方が好きなんだ。
様々な不協和音が響くオープニング。
机で向き合う男が二人。警官と憔悴した謎の男、警官が男から事情を聴く。
捕えられるまでの記憶、捕らわれた後の記憶の中の恐怖。弄ばれる苛立ち、生きるために一線を越えなければならない葛藤。
鍵を得るための作業が“影”で演出される巧さ。この時点でジェームズ・ワンはズバ抜けた何かを持っていた。
帽子を被る人形のウザさといった。
この短編の内容は長編版「ソウ」において、別の人間によって繰り返される。こんな面白いもの、反復したくもなるぜ。