4.《ネタバレ》 冒頭、バスに乗って若い役者たちが、芝居を打つために砂漠の廃墟にやって来る。観客はいない。見る者ではなく、演じる者のための芝居。「演」がいつしかそのまま「生」になっている感じ。この演劇感。オリジナルが有名な舞台ミュージカルなだけはある、面白い演出だ。お芝居という設定を生かして、舞台演劇にあるような、制約を逆手にとったようなセット、小道具、演出を効果的に使っている。それは、ユダを追い詰める、時代考証などぶっ飛ばした戦車だったり、異端者ユダをマイノリティの代表選手、黒人が演じている事だったり、まるで舞台装置のような、城壁だったり、血と青空の対比を強調する、ガラスのボウルだったり…。
当然のことながら、基本的には新約聖書のお話。その解釈は、宗教的ではなく、史実的。奇跡もなく、遠藤周作の描くイエス像に近いこのストーリーは、現代の普通の(無宗教、雑食宗教の)日本人には受け入れやすいと思う。ユダヤを治めるローマの総督による裁判のシーンは、運命に従うジーザスと、彼をなじる民衆と、この裁判に疑問を持つピラトの、三つ巴のせめぎ合いがサスペンスフルで、私の大好きなシーンだ。なんて言うと、不謹慎のそしりを免れないかもしれないが、これが、無宗教者の楽しみ方だ。
実は他作品のレビューで「何かに魂を売り渡さなければ演じられない、という価値観は嫌い」等と書いた事があるが、演じたことによって何かを得る、感じ取る、という感じは否定しない、というより、そういうの好きである。物語の中で、ユダだけが、ジーザスの進む道とその結果、覚悟を知る人間だったわけだが、最後に帰らないジーザス役を思うのが、やはりユダ役の黒人青年とマリア役の女だけという、同じ構造を畳み掛けるような手法が見事。「終演後」に、帰りのバスに乗らないジーザス役の若者は、一体何を感じ、何を得たのか。見る側の私の気持ちは、ユダの問いと同じなのかも知れない。
あ、最後に言っておかねば。やはり、ロイド・ウエバーの音楽は素晴らしい。ユダヤの神官たちの「黒い」感じ、「ジーザスクラーイスト、スーパスター♪」という部分の聖なる感じ、「私はイエスがわからない」の限りなく優しい感じ、どれも見事!25歳の青年の作とは思えない。