1.《ネタバレ》 肩書ユーチューバー、過激な言動やお花の眼帯からは地雷臭が漂います。番組制作会社からは『テレビに出しちゃいけない人』認定される主人公ですが、果たして本当にヤバイ人でしょうか。ユーチューバーは芸能界への憧れが投影された活動ですし、眼帯はタモリさんをリスペクトしたもの(嘘)。TPOで眼帯を使い分ける良識も持っています。きちんとバイトし、健康的にジョギングまでしちゃってます。確かに彼女は『拗らせ』てはいますが、常識的な方向への捻じ曲がり。そりゃ大して努力もしていない(と感じる)双子の妹(ポテンシャルは同じはず)だけが評価されたら、腐りたくもなりますよ。それに拗らせているのは何も主人公だけではありません。引き籠りの弟、将来を棒に振った妹も似たようなものでしょう。『アストラルアブノーマル』なるパワーワードはいわば誇大広告で、後に続く『鈴木さん』は主人公だけを差したものでなく、『よくある苗字』=『あなた』を意味していると考えます。誰だって、多かれ少なかれ拗らせながら生きています(と思いたい)。
『拗らせ』に特効薬はありませんが、環境変化や体験が治療効果を発揮する場合があります。主人公は『見下し対象』の才能に触れ己が無力さを思い知りましたし、弟くんは細ネクタイとの“映画史に残る”泥試合を経て外の世界へ踏み出せました。人生、何が契機になるか分かりません。芸能界という特殊空間から解放された妹が、早々に目を覚ましたのも道理でしょう。もっとも、拗らせが解消されたところで、現状は改善しません。今までより“公平に”状況を把握できるだけ。そこにある希望は『最悪に比べればマシ』程度のもの。意識高い系の人なら鼻で笑うでしょう。しかし小さくとも自身を肯定するのは大切な作業です。そこを土台として、自分なりの『正解探し』が始まります。主人公が拗らせて苦しんだのは、全てを否定したからに他なりません。
当初は『拗らせ系女子』の生態を生暖かく観察しよう位の意識でしたが、次第に物語へ引き込まれました。恥ずかしながら、主人公の気持ちは大変よく理解できるもので、私も彼女と同じように拗らせる素養を持ち合わせていることになります。双子の妹との差しの勝負(withピストルライター)、鈴木家全員集合(with逆ギレ男)の空気感は絶品で、修羅場コメディとしても秀逸でした。主にララ氏のワードセンスにやられました。エンドクレジットで彼女が踊る『コンテンポラリー風出鱈目ダンス』は、本作で提示された人生観を体現したものであり、清く正しく美しい『推奨されるき生き方』とは真逆に位置するものです。だからこそ鋭く突き刺さったのでしょうが、私の心が弱っていたことも否定できません。私にとって、大いに愛せる映画。人生に行き詰まっている人には『観ると楽になるかもよ』と無責任に勧めてみたくなる映画でもあります。