4.《ネタバレ》 タルコフスキーのストーカー。久々に見ました。
タルコフスキーの映画の映像に宿る美しさの正体とはなんだろう?
それは未だにわからない。
それとは別に、
タルコフスキーは人の孤独を突きつけるような気がした(しかし孤独は美しい哲学だ)。
男は孤独であると、それを思い知らされる。
囚人の気分になる男は、
日常という牢獄に苦しみ、哲学を求め、夢やロマンを求め、冒険を求め、そういう何かを(家庭の外に?)求める男の姿を描いています。
しかし「死」というものが凄く間近にあってチラつきます。
この作品の不思議な空間の中では、「死」が非常に近くにあって危険で、一歩間違えると危うい異次元のような感じが好きです。
また、そういう危ない場所に挑む男達が好きです。
映画の中の言葉にありましたように、人生は僅かな楽しみ以外には、苦しみか空しさの選択しかありません。なんだかそんなこと考えちゃいました。
ゾーンという空間は女性を受け付けないみたいですね。おもしろいです。
自然が美しく、植物の美しさが好きです。水も火も美しいです。
タルコフスキーの映画はなんでズッコケる人が続出するのか分かりません。
タルコフスキーの映画は舞台芸術を見ているかのようです。
役者の台詞が、観客に向けて訴えているみたいです。静かな演説のようでもあります。
タルコフスキーの表現者としての表現の仕方が好きです。表現しかしていないみたいです。
観客に伝えるのが、まるでなにかの運動のようです。
最後でコップが動いてこちら側に向かってくるのは(その意図は分かりませんが)、少女の念がまるで観客にまで迫ってくるようで、リングのテレビから貞子が出現する恐怖の伝え方みたいです。
タルコフスキーの訴えんとするメッセージをまるで彼が少女の瞳に込め、その少女の眼力とコップの動きで迫ってくるような迫力が、観客への念の伝動みたいです。
コップが落ちたときに、ハッとしてそのメッセージを受け取ったような錯覚を受けました。
知識に関係なくタルコフスキーのスピリットを多少なりとも受け取ることが出来ると思います(タルコフスキーは知識として伝えようとしているのではなく、効果で伝えようとしているからです)。
「利益を目的とするとヤマアラシのようになります」と話す場面では、
演技の域を超えていたと思います。
演技の域を超えた瞬間に映像に命が宿るのだと思いました。