6.映画は、画面の向こう側の世界を映し出す。勿論、接点などどこにも無い。登場人物の境遇と自分のそれとが近ければ、ちょっとだけ共感することはできる。妄想好きな私などは、あちら側の世界に同調することも容易い。が、それができる作品と言うのは、「気休め」であることが多い。素直に泣けたらストレス解消となる。うっとりできれば性欲を臆面も無く垂れ流す言い訳に。怒りを覚えれば自分の持つ以上の知識を動員しお喋りの場を議論の場に摩り替えることができる。
映画がきっかけで何らかの活動家になった人もいるだろう。原爆作品を観て…というのなら、それを批判する私が攻撃されるのは目に見えている。ので、あんまり触れたくないのだが…「ホントに共感してんのか!?」である。
一方で、そのような作品を観て涙しておきながら、何も勉強せず、何も行動しない私は一体…とも思ってはいる。言い訳ではない。言い訳ならいくらでも。「そういう団体は、信じられない。それはそれ、私は自分の生活だけで充分です。投票日だけ、考えます。」
だが、たぶん、やってる人も、やってる言い訳・理由は、スラスラと流れ出るだろう。人に活動を起こさせる映画ってのは、―語弊があるが―、簡単な気がする。
この作品はそうではない。監督の個人的な心象風景を静かに形にしているだけである。
モンティが鏡の中の自分と喋った内容は、このストーリーと関係ないように思えたが、「他人の気持ちは100%は分からない」んである。が、この作品では「分からせよう」とするのである。売人の気持ちを。人間以下の世界を目の前にして脅える気持ちを。その瞬間にも自分を温めてくれる幻を見る切なさを。売人の親友であると触れ込んでいた自分の愚かさを。
私は、自分以外の人間を「殺してやりたい」と思ったことは無いが、「何をするか分からない」と思ったことはある。錯乱して人を殺す可能性は否めない。絶対に。
そんなことは、日常では忘れている。根っからの善人だは思ってはいないが、どちらかと言えば、生善説を支持したい。だが、能天気な生善人間の中に、必ず悪が息づいているとも思っている。…善の中の悪は、やっぱり悪なのか???
この作品の登場人物の誰かに、自分を投影することができた時、善人であるはずの自分の中の悪に、何かを感じる。そんな作品だと思う。