8.この映画、初めて見たのは、ゴールデン洋画劇場で放送されてた時でして、解説は勿論、いつもニコニコ顔で無難なコメントを述べるだけの高島忠夫さん。あのドレミファドンやウルトラクイズ同様の笑顔でいつも映画解説役を無難にこなしている高島忠夫さんが、この映画の後、「私はこの映画に対し、2つ、言いたいことがある」とぶち上げたのが、いまだに印象に残ってます(って言っても古い話なのでどこまで確かな記憶かは保障しません、ゴメンナサイ)。曰く、1つ目、あのラストにおける再会のシーン、ここはただ抱き合うだけでいいじゃないか、セリフは不必要でしょう、とのこと。そして2つ目、なぜアカデミー「助演」男優賞なのか。これは「主演」でしょう、と。
まあ、少なくとも、本田勝一がこの映画について書いていること(「貧困なる精神」参照)に比べれば、一億倍くらいイイ事言ってる気はします。
それはともかく、本作。ベトナム戦争が飛び火したカンボジア内戦から、ポル・ポト派(いわゆるクメール・ルージュ)による弾圧と虐殺、そしてその中をかろうじて生き延びた現地ジャーナリストの姿が、描かれており、内戦下の緊迫感や、粛清の恐怖といったものが、作品に満ち満ちています。
後半、国に帰ったシャンバーグ記者と、現地に残され苦難を味わうディス・プランの関係は、「逃げた者の罪悪感」も含め、ちょっと「南極物語」みたいな図式ですけれども、受ける印象は(当然ながら)大きく異なります。この映画の後半は、ディス・プランの独白など一部のセリフが英語ですが、それ以外は字幕なしの現地語であり、プランは勿論それを理解するだろうけれど、見ている我々にはそれが、理不尽な弾圧を象徴する「理解を超えた恐怖」として迫ってくる(その意味では、このシーン、カンボジア語を理解する人とは印象を大きく異にするでしょう)。
一方で、退却を進めるアメリカ軍のヘリコプターの、メカニックな姿。また一方では、文明を拒否するポル・ポト派が推し進める、恐怖に裏打ちされた原始社会。どちらも非人間的であり、それと同時に、この物語の中心にいるジャーナリストたちの姿もまた、無力であるばかりではなく打算とのスレスレに位置している点、はたして人間的と言えるのかどうか紙一重のところもあって。
決して綺麗ごとだけでは描かれていない、だけどそれでも、希望を描かずにはいられない、そこが作品の感動となっているように感じます。
しかし、惜しむらくは、音楽が一部、作品とまるでマッチしていないんですよね~~~(イマジンとかアルハンブラのことじゃ、ないですよ)