1.《ネタバレ》 ひさびさに見ごたえのある法廷ものを見た。
これは殺人事件とか法廷に場所をとっているというだけで、本来は心理モノとして見るのがいいと思う。ハリーが3人を殺害するについては、事前準備や殺害の詳細についてさえ全く描写されない。観客は「罪を犯した」という動かぬ事実として知らされるのみ。事件モノでは全然ない。
主人公の弁護士ロイが、自宅に帰らずあちらこちらを忙しく往復する様子を時間軸に沿って描く話だが、その訪問先の空気感の違いに注目したい。
ロイ対ハリーの場面では、交わされる言葉は少なく、すべてが深く重く、心の奥に突き刺さる。教会とか、病院のカウンセリング室とか、そういう空気感がする。
ロイ対「俗悪にまみれた勝ち組の人々」の場面では、すべての会話が「利益」を中心に回っていて、「利益」を超える価値観はそこには無い。ハリーとの対話で「神」とか「罪」とか「償い」とか「慈悲」についてしみじみ語り合った後に、思い切り脂ぎって「次の検事選に」とかいう会話をしているわけだ。この落差が見事である。
そしてもうひとつ、忘れてならないのはロイ対メル(事務所の手伝いのおっさん)だ。
メルの役どころとは何か。それは「俗悪にまみれて勝ち組を目指しているロイの心に埋もれた良心」である。ロイは、己の行動に自信が無くなったとき、メルに「これでいいのか」とたずねている。
バーでのウィスキーによる「洗礼」場面は、奇異に感じられるだろう。ロイに「これでいいのか」と聞かれていたメルの答えは「洗礼」だった。洗礼を受けるということは、メルの言うとおり、「天国へ行くか、地獄へ行くか、どちらかしかなくなる」ということで、メルは「ここから先は、常に〝何が正しいか〟を意識して行動しろ。さもなくば地獄行きだ」と言っているのだ。自分で決めるしかないのだ。
ハリーの妻との密会については、法廷でハリーに妻を責めさせる材料とするための強引な設定だったと思う。ハリーの無念さをそそってドラマ性を高めるための材料とはいえ、主役がアレック・ボールドウィンなのだから、依頼人の妻を食ってしまうなんてあまりにも当たり前に過ぎて、気に入らない。これは非常に残念だ。
が、全体としては見事な脚本とキングズレーの怪演で良作に仕上がっている。私には、ハリー、ロイ、ハリーの妻、メルのセリフは、ひとつひとつ深く心に落ちるものだった。なかなかそういう作品はない。