2.《ネタバレ》 「料理」というものを突き詰めた結果、たどり着くのは果たして、“奉仕”だろうか、“芸術”だろうか。いや、“狂気”だった。
人間にとって不可欠なプロセスである「食事」を対象にして、更にその欲求を高め、娯楽性を生み、古くから享楽の境地にまで達した「料理」には、元来人を狂乱させる要素を多分に孕んでいるものなのかもしれない。
何のために料理をするのか、誰のために料理をするのか。
いつしかそれを見失ったまま、その“行為”を極限まで追い求め、高め抜いた結果、そこに群がる高慢と強欲の餌食となってしまった一人のシェフによる、狂気的な芸術と奉仕。
それは一見すると、究極的な“逆恨み”による復讐劇のようにも見えるけれど、本作が最終的に描き出したものは、もっと達観していて、もっとイカれた、至高の料理人による「表現」であった。
彼にとっては、自分自身の料理に群がり渦巻く愚かな人間たちの“業”そのものと、それに対する怒りや悲しみや絶望が、もはや料理を彩るための“スパイス”や“隠し味”にしか捉えられなかったのだろう。
シェフの絶望と狂気は、彼と彼の料理を妄信的に信奉するすべてのスタッフ、そしてさらにはゲストたちにも伝染していく。
料理、そして食事の本質を見失い、“高額な美食”というステータスに執着する人間たちが、このレストランに来る前からそもそも抱えていた虚無感と闇が、ラストの“デザート”を迎える頃には充満していたように思える。
そして最終的には、ゲストも含め、レストラン内に残った全員がこの“メニュー”の終着を心から望んでいたようにすら見えた。
劇中シェフ自身からも言及されている通り、“メニュー”による理不尽や暴力に対して、客たちは結託していくらでも抗い闘うことができたはずだが、彼らは「美食」というレッテルにただ支配され、殆ど抵抗らしい抵抗をすることもなく盲目的に受け入れてしまっている。
その虚栄心に満ちた客たちの無理解と浅はかさこそ、このシェフが狂気に殉じた起因なのだろう。
そうしたすべての顛末を、達観した強い眼差しで眺めながら、冷めたチーズバーガーを頬張るアニャ・テイラー=ジョイの表情が堪らない。
アニャ・テイラー=ジョイが主演としてメインを張った時点で、彼女がこの地獄絵図を生き残ることはある意味必然(「スプリット」の“ビースト”から生き延びたのだから)だったろうが、相変わらずの眼力でシェフと観客を魅了している。
主演女優をはじめ、配役とそれぞれの演技も素晴らしかった。
狂気の料理人を体現しきったレイフ・ファインズは、彼の芳醇なキャリアにおいても特筆すべき印象的な演技を見せ、劇中のレストランのみならず、本作そのものを支配していたと思う。
個人的に長らくファンのバイプレイヤー、ジョン・レグイザモの安定した存在感、ベトナム系女優ホン・チャウのおぞましい立ち位置も見事だった。
彼らを筆頭に、様々な人種が混在するレストラン内の面々がこの世界の縮図を表していたのだとも思う。
そして、実はシェフよりもよっぽどサイコパスだったグルメマニアを演じたニコラス・ホルトのキャスティングも抜群にハマっていた。
冒頭のスタッフの宿舎を案内するシーンでの「燃え尽きることはないのか?」というゲストの何気ない発言だったり、「シェフは死と戯れる」、「すべてを受け入れて赦すのです」といった序盤の様々な台詞回しが、“メニュー”の伏線となっていくストーリーテリングも見事。