2.《ネタバレ》 よく、男女の「三角関係」、なんて言われますが、いやそれ、“三角形”ではないでしょ、と。その関係に、三角形と言えるような対称性は無いので、むしろ「Ⅴ字関係」なり「T字関係」なり、この非対称性をうまく表す言い方って、無いもんだろうか?
そこにくると、この作品。親子三代、泥棒一家のオハナシ。爺さん、父、息子、こちらの方が余程、「三角関係」なんじゃなかろうか? それぞれがそれぞれに対し、微妙な関係を保ち、三角形を形成。瞬時瞬時を見れば対称ではなくとも、総じてみれば、どこか似たり寄ったり、この親にしてこの子あり、この孫あり。
で、この3人を演じるのが、80年代後半から役の幅を広げ活き活きし始めたショーン・コネリー、2度目のオスカーを受賞したダスティン・ホフマン、当時の若手の中で目立っているという程でもないけどまあそれなりに注目株のマシュー・ブロデリック(彼ぐらいの範囲までブラット・パックの一人に数えてちゃってよいものなんだろうか?)。なかなかに贅沢な布陣で、人気俳優をただ集めりゃいいってもんじゃないでしょ、とは、誰しも思うところ。お互い全然似てないしなあ、とも、誰しも思うところ。
しかし、お互い似てない、ってのは、この作品ではOK、というよりむしろ、狙い通り、なのかも知れませぬ。似てない3人の自己主張ゆえ、浮かび上がる三角形の関係性。爺さんのS・コネリーばかりがやたら背が高いのも一見奇妙だけど、M・ブロデリックとD・ホフマンが向かい合い、その向こうに正面向いてS・コネリーが立っていると、ちゃんと3人の顔の位置が三角形をなしている。
実際、この映画、この3人の配置をどうカメラに収めるか、ということに、やたら拘っているような。あるいは、それを楽しんで撮っているような。
前半、3人がバーで揃って会話するシーン。ここは、言い合うS・コネリーとD・ホフマンの姿が一人ずつ横から撮影されたものが繋ぎ合わされ、映像的にはその会話はブチブチと切られています。しかしこの場面、実際にどのように撮影されたのかは知りませんが、雰囲気的にははまるで、一気に演じられた二人の会話を複数カメラで実況風にとらえたような、勢いがあります。この段階ではまだ、二人は「線」の関係。それが、映画が進むに従い、時に対立を交えつつも何だか3人それぞれが互いに補完するような、「三角形」の関係が浮かび上がってきます。
いったん完成したような3角形が、後半、事件をきっかけにまたイビツになっていくのですが、この転機となる事件におけるM・ブロデリックの無能ぶりたるや、もう一体何やってんだか、ため息を通り越して笑っちゃうほど。笑いごとでは済まないけど。でも、爺さんから見た孫、父から見た息子、の姿ってのは、やっぱり、こんなもんでしょ。どうしてあそこまでドン臭いのか信じられぬ、と思っちゃうけど、その事実は受け入れねばならぬ。父もまた若い頃には爺さんの目にそう映ったのかもしれないし、爺さんだって若い頃には。
親子3人、困ったヒトたちではありますが、一方で、彼らを取り巻く移民社会みたいなものも描かれていて、血の濃さ、というものを感じさせます。泥棒稼業ってのは極端にしても、受け継がれていく何かが、そこにはある。自分自身は消えていっても、何かがそこに残っていく。
オープニングでニューヨークの高層建築を遠方に捉えたカメラが、視線を下に向けていくとそこには古びた街並みがあり、さらに視線が手元に迫るとそこには、何やら粉のようなものが撒かれていて。映画のラストでその正体が明らかになり、やがてカメラは視線を遠くへ移して映画冒頭のアングルに戻って、幕を閉じます。この大きな街の片隅では、こういう無数の物語が紡がれているんですよ、とでも言うような。
この作品、あまり評判がよろしくないようで、でも私は好きですねえ。