1.アンゲロプロスの映画では、しばしば歴史から伝説へと登場人物が漂い流れていったが、この作品では逆に現代の中に伝説が一個の死体となってドンと置かれるところから始まる。わずかな青空がゆっくりと雲に閉ざされていく冒頭、その雪原の中で狩人たちは四半世紀前のゲリラの死体を発見してしまう。苛烈な歴史に生き残った者たちの前に、生き残れなかった者が闖入してくる。『旅芸人の記録』が歴史を下から眺めていた「演じる者たち」の物語とするなら、これは上から眺めている「椅子を並べ観劇する者たち」の物語だ。栄光館のロビーで彼らは互いが演じた過去の歴史を見物し検証し批評することになる。見えるはずのないゲリラの死体に見守られながら、見えない国王と踊るまでの二十数年の歴史がこの一室で繰り広げられていくのである。見事なシーンの連続だが、あのテロシーンの密度はどうだろう。新聞記者や車が排除され道が静まる。車が去ったところから「踊りながら」やってくる右翼たち、表情は読み取れない、平和行進のデモ隊とのにらみ合い、デモのリーダーが歩み寄ってきたところで不意に画面に飛び込んでくる車、そして銃撃、すぐに死体を確保してしまう警察。この数シーンワンカットの迫力はリアリズムから来ているのではない。出来るだけ静けさを引き伸ばしておいてから一気に畳み込んでいく演劇的なクレッシェンド。ギリシャ現代史のやりきれなさを監督の心の中でじっくりと圧力を掛け続けた果てに、ワンカットの中に沸騰して流し込んでいる。そのとき彼の映画は限りなくミュージカルに近づいているようなのだ。あの右翼が示した踊りながらやってくる動き、彼らのふてぶてしさなり民主化を願う人々を小馬鹿にしたような気分が、表情を持たないロング映像の中で、生々しく匂い立っていた。彼の映画では歌がよく歌われ、音楽が演奏される。楽団が登場しない作品があっただろうか。しかし個人の恋愛を歌うハリウッドミュージカルと違うのは、それがしばしば集団の歌なのだ。個人を覆い隠してしまう音楽、明るく響けば響くほどその中心点がウツロになっていくような音楽(大島渚との近親性)、ハーモニカやアコーディオンといった鄙びた音色への偏愛も特徴的。アンゲロプロスはギリシャの陰鬱な空を発明し、長回しの技法を洗練してロングの雄弁さを再確認させてくれた。しかしそれにもまして私が興味あるのはミュージカル作家としての彼なのだ。