1.《ネタバレ》 オープニングで神の存在を否定するムッソリーニと、それを好ましく見詰める
女イーダ。
ドキュメンタリーフィルムの重厚な煙突が画面を突き上げ、そこに
「勝利を」のタイトルが被さる。
ここでこの映画の成功は約束されたも同然であった。勝利の文字が我々の目に飛び込んでくる。
前作の「夜よ、こんにちは」の衝撃は忘れられない。
待ちに待った、指折り数えたベロッキオの新作の公開である。自然ハードルも上がるだけ上がったが、期待に違わぬ傑作を創ってくれた。
主題は、女の狂気の愛ということになるだろうか、ベロッキオの過去の作品「肉体の悪魔」との類似性を散見した。檻の使い方であったり、精神科医の登場であったり、しかしながらそれは、焼き直しや冗長な繰り返しではなく、ブラッシュアップされた芸術の進歩を感じさせるものであった。
例えば、小津の戦後作品のほとんどが戦前の「戸田家の兄妹」に於いて完成されつつあった小津芸術のブラッシュアップであると言って良いとも思うが、それは決して負のイメージのものではなく、芸術の勝利そのものでありそれと同じエネルギーをベロッキオに感ずる。
もっと言えば「肉体の悪魔」はベロッキオの左翼性を強調する以外の何物をも与え得なかったが、「愛の勝利を」に於いては普遍性を確実に獲得している。
ベロッキオは、ムッソリーニに仮託して宗教の欺瞞性(イーダの哀願に答える老シスターの言葉の空虚さ)全体主義の非人間性、人が愛と呼ぶものの独善性等、重厚に、美しく、破綻なく描き切った。
重い映画である。チャップリンさえも重く伸し掛る。人生とはそういうものなのかも知れない。全米批評家賞最優秀女優賞は伊達ではない。彼女に見据えられ、その後終幕を迎えた時、図らずも目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。
愛とは何か、未だに余韻を引きずったまま只ベロッキオに感謝したい。今や映画のクオリティは70を超えた老人の手に掛かっているのだ。
この作品を映画館で観なければ嘘だろう。シネマートに最高益を出させるくらい大入りが続くべき傑作である。言葉がいくらあっても足りない。我々はチャップリンやヒッチコックを観るようにリアルタイムで「古典」を観ている。